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「悪い。頼むよ」
「うん。……それじゃ、そろそろ家帰るね。ママが心配してるかもしれないし」
「ああ」
香奈がテーブルに手をついて立ち上がる。その弾みでテーブルが少し揺れ、コップの中のウーロン茶の水面に波が起こる。結局、二人ともウーロン茶に口はつけないままだった。
香奈が居間を出て玄関へ向かう。スニーカーを履き、香奈がドアを開けた。
香奈の背中に、声をかけた。
「ごめんな」
「謝らなくていいよ。仕方ないよ。こっちこそ、ごめんなさい。……また土曜に来るから。それじゃね」
「ありがとう。お大事に」
ドアが閉まった。サンダルをひっかけて、鍵をかける。居間に戻って、座布団の上であぐらをかく。コップのウーロン茶を飲んだ。冷たい液体が体の中を通り抜ける。それがきっかけとなったのか、散々殴られた腹が再び疼き出す。
授業がすべて終わったはずの時間を見計らって、おれは電話をかけた。かなり長い間、発信音が鳴り続け、やっとのことで相手は出た。
「もしもし」
「何」多田の声色は、明らかに普段とは違った。
「頼みがある」おれを散々痛めつけた相手に、ものを頼むことは屈辱ではあった。それでも、頼みを引き受けてくれそうな、引き受けられそうな友人はこいつしかいなかった。同性から見てもなかなかの男前で、クラスの女子たちとよく話している多田しかいなかった。
「噂を流してほしい」
「どんな」
「おれは病院で香奈のこと押し倒そうとしたけど、ものの見事に返り討ちにあった」
「お前の、エッチしないと死ぬとかいう病気についてはどうする」
「それはさすがに否定したい。そんな馬鹿げた病気、あるわけないだろ?」
しばしの沈黙ののちに、多田は言った。
「わかった。やってみる。うまくいくかは知らんが」
「ああ、もちろんだ。頼む」
「じゃあな」
おれの体を気遣う言葉を一言も口にしないまま、多田はあっさりと電話を切った。昼間のおれの反応から、多田はどれだけのことを察しただろうか。おれが香奈を抱いた、そのことには気付いているだろう。だからこそ、おれはあんなにも殴られたのだろう。
握ったままの携帯電話で、今度は電話をかける。相手はすぐに出た。
「はいもしもし」
「先日そちらでお世話になった山井といいます。看護婦の渡辺さんはいらっしゃいますか?」電話をかけた先はT大病院のナースルームだ。
「少々お待ちください」
待つこと数十秒。
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