第2章

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 西は、そもそもカラオケに来ること自体が初めてだという。西はリモコンの操作を何度も間違えた。間違った入力でかかるのは、なぜかいつも演歌だった。「実は自分でも気付いてないけど演歌歌手になりたいんじゃない?」おれの下らない冗談を、西はむきになって否定した。代わりにおれが曲を入力してやると、西は顔を真っ赤にして恥ずかしそうに、それでも一生懸命、少し古いヒット曲を歌った。合唱部の歌い方みたいで、全然ポップスっぽい歌い方じゃなかったけれど、それでも聞いていて楽しかった。カラオケで他人の歌を聴くのを楽しいと思ったのは初めてだった。ストレスを発散したくて、おれはハードロックばかり選んで腹の底から叫び続けた。薄暗い狭い部屋で女の子と二人っきりで肩の触れそうな隣同士で座っているという危険な状況で間違いを起こさないようにと、欲望のすべてを叫び声に変えようと思った。昨日殴られた腹は痛かったけれど、喉はすぐに嗄れたけれど、それでも叫んだ。  おれの手を借りずに、西が初めて自分の手で入力に成功したのが「翼をください」だった。「中学の時の合唱コンクールで課題曲だったの」と恥ずかしそうに西は言った。  西は、一生懸命歌った。狭い薄いソファから立ち上がり、小さな体でいっぱい息を吸って、大きく口を開けて、西は歌った。 「この大空に」 「翼を広げ」 「飛んでいきたいよ」 「悲しみのない」 「自由な空へ」 「翼はためかせ」 「行きたい」  悲しみのない自由な空へ、翼はためかせ、行きたい。  悲しみのないところがあるなら、行ってみたかった。連れて行ってほしかった。高校を卒業して東京に出て大学に通うようになったら、この悲しみから逃れられるのか?  西の歌を聞きながら、ディスプレーに流れる歌詞を読みながら、おれはいつしか泣いていた。涙が、鼻水が、顔を濡らしていく。おれの鼻をすすり上げる音に気付いて、西が歌うのを止めた。歌声が途絶えた。西がマイクをテーブルに置いて、椅子に座り直した。 「大丈夫だよ。山井くん」おれの方に体を向けて、西が両手でおれの左手を握った。あたたかかった。 「大丈夫」西は優しい声で繰り返した。 「……うん」おれは俯いたまま、鼻をグスグス言わせたまま、どうにか声を発した。  曲が止まった。まだ、西はおれの手を握ってくれていた。 「ねえ、西さん」 「うん?」
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