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そう言って、野添が久志に頭を下げた。おそらく初めて見るであろう野添の真摯な様子に、芹澤の眉間に寄っていたシワが浅くなる。
久志の趣味に付き合い、芹澤と一緒に旅行ができるからという軽い気持ちで、野添が今回の出張についてきたとばかり思っていたが、違うようだ。
野添は野添で、きちんと仕事と勉強のために同行したのだと知って、芹澤はちょっと彼に対する考え方を改めてみようと思った。
芹澤に対してふざけたことばかり言ってはいるが、本当はとても真面目な人間なのかもしれない。
「野添くん、私はあなたのことを誤解――」
芹澤が野添に対して、これまでの失礼な態度を詫びようと口を開いた。
「これだけ大勢の人がいても、やっぱり芳美が一番素敵だ。君を見ているとアイデアが泉のように涌いてくるよ……俺のミューズ」
恥ずかしいくらいのオーバーアクションで、野添が芹澤の肩を抱き寄せる。何かのアトラクションとでも思ったのか、いつの間にか芹澤と野添の周りに人垣が出来ていた。
「ほら見てごらん、芳美の美しさに人が集まって来ているよ」
野添が誇らしげに周囲に集まった人達を見渡す。
ダメだ。この男にまともな考えを求めても無駄だった。
芹澤は心底嫌そうに野添の腕を解き、体を突き放した。
「ちょっと野添くん、何を変なこと言っているんですか。沸いてるのはアイデアではなくて、あなたの頭の中じゃないですか?」
「頭の中……そうだね、俺の頭の中は芳美への想いが溢れかえっているよ」
野添はすでに自分の世界に浸りきっている。
この男はこうなってしまうと、芹澤はもちろん他人の言葉など聞く耳を持たない。聞いたとしても、頭の中で勝手に野添ワードに変換され、都合よく解釈されてしまうのだ。
まともに相手をするのは時間の無駄だ。
芹澤は、自分の世界に浸っている男を完全スルーすることにした。
「――何ですか?」
いやに楽しげな様子で、芹澤らのことを眺めている久志を芹澤が横目で睨んだ。
「いや……芹澤、顔が怖い」
「…………っ」
先ほど久志へ注意したことをそのまま返され、芹澤が言葉を詰まらせる。
「顔が怖いって、ちょっ……」
「だけど楽しそうだ」
「…………」
「なんだ?」
「……いえ、何でもありません」
呑気に話している二人を、会場内の離れたところから山下が眺めていた。
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