970人が本棚に入れています
本棚に追加
「久志さん、久志さん!」
中庭に面した廊下から母が久志のことを呼んでいる。
今日は来客があるからと午前中の英会話と午後からの経済学の家庭教師が休みになった。
よほど大切な客なのだろう、たまにしか帰ってこない父親が自宅に帰ってきている。
父に来客なら自分には直接関係はないだろうと、久志は読みかけの小説を持って、こっそり自室を抜け出した。
広い庭の茂みに身を隠しながら、裏手にある出口を目指す。
大人たちの目を盗んで、裏口から無事脱出に成功した久志は、裏口扉に凭れて大きく息をついた。
住宅地から少し離れた場所にある久志の自宅は、裏手に私有地である小高い山がある。久志は時おり今日のようにこっそり自宅を抜け出し、そこだけぽっかりと木が生えていない、お気に入りの場所で本を読むのを楽しみにしていた。
「…………」
「――誰かいるのか?」
久志しかいないはずなのに、人の気配と話し声がする。
紺野家の私有地に誰かが紛れ込んだのだろうか。久志は人の気配のする方へと足を向けた。
「おじさん、まだー?」
声の正体は幼い子供のようだ。舌足らずな喋り方から、まだ就学前だろう。
「なっちゃん、つかれちゃったよ。もうあるきたくない」
「――もうちょっと、頑張ろう? あと少し行くとお家があるから。お菓子も用意してあるよ」
「ほんと? ねこちゃんもいるの?」
「うん、いるよ。生まれたばかりで可愛いよ」
久志が茂みの陰からこっそりと様子を窺うと、くるんとした大きな瞳が印象的な天使のように可愛らしい子供が久志の父親と同じくらいの年頃の男に手を引かれているのが見えた。
確かに、ここからしばらく歩いた所に小さな物置小屋があるが、あんな小さな子供を連れ込んで何をしようというのか。
「――もしもし、芹澤? ちょっといいか?」
久志はポケットから携帯電話を取り出すと、父の秘書の息子である芹澤芳美(せりざわよしみ)に連絡をした。
芹澤の家は代々紺野家に仕えており、久志の家の敷地内の離れに住んでいる。四つ年上の彼は久志を取り巻く人々の中で、一番年が近く、幼い頃から一緒に過ごしてきた仲だ。
最初のコメントを投稿しよう!