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久志に手を引かれ、見かけによらず広い胸に夏樹は頭を抱き込まれてしまった。
「紺野さん、離して下さいっ」
「久志、だろう。しょうがないなあ……そんなに照れなくてもいいのに。それと、離すのは却下だ。君のその可愛らしい表情を誰にも見せたくない」
耳朶を軽く食むようにして囁かれ、夏樹は腰に響く久志の低音に膝から力が抜けてしまった。
危うくその場に崩れそうになる夏樹の体を久志の力強い腕が難なく支える。
「専務、もうその辺で。そろそろお時間です」
二人の世界――主に久志の――に、すっかり静まり返ってしまった社員食堂内に何事もなかったように芹澤の声が響いた。
「もうそんな時間か? 夏樹といると時間の経つのが妙に早くなるな。芹澤、今日の夜の予定は?」
「本日は特に」
「――そうか。夏樹、今夜食事に行こう。時間は後で知らせる。それまでいい子でいるように」
最後の一言は夏樹にしか聞こえないように、頬を擦り寄せるようにして囁く。
恋人たちがするような他人との触れ合いに免疫のない夏樹は、すでに放心状態だ。
くったりと力の抜けてしまった夏樹を久志は軽々と抱き上げ、そっと椅子に座らせた。
「それじゃあ夏樹。今夜、楽しみにしているよ」
「…………」
腕をだらんと垂らし、言葉なくテーブルに額をくっつけている夏樹の頬を人差し指の背で軽く撫でると、久志は一瞬、眼鏡の奥の瞳を細め、その場を後にした。
「なつきー、大丈夫かー」
「……」
「生きてはいるようだな」
テーブルに額をくっつけたままの夏樹と、それを覗き込む修一は、久志の背中を見つめる山下の不穏な気配には気づかなかった。
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