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ぱっと見た限りでは一体何と書かれているのか解らない掛け軸と、品よく活けられた花が床の間を飾っている。
十畳ほどの和室。大きな座卓を挟んで夏樹は久志の真向かいに座っていた。
久志から食事に誘われ、就業時間ちょうどに芹澤から「エントランスで専務がお待ちです」と内線があった。
誘われて、終業後に食事を共にするのはこれで二回目だ。
外回りが多い夏樹と元々忙しそうにしている久志。社内で顔を合わせるのも、どちらかと言えば久志が時間の空いたときに夏樹の姿を見つけて声をかけるというパターンがほとんどだ。
前回は何とかというフランス料理の店だったか。
後から修一に聞いた所、その店はかなりの高級店で人気もあり簡単には予約ができないそうだ。
恐らく今日連れて来られたこの料亭もそんな類いの所なのだろう。
夏樹は心の中でそっとため息をついた。
――早く帰りたい。
なれない場所で落ち着かないのももちろんだが、夏樹にはそれとは別に早く帰りたい理由があった。
ここ数日、夏樹が残業などで帰宅が遅くなったときに限って、自宅に帰ると誰かが部屋に侵入したような気配があった。
物が盗られたとか、部屋の中を荒らされたとかいう訳ではないのだが、帰宅して部屋の中に一歩足を踏み入れたときに何ともいえない嫌な感じがするのだ。
あくまで夏樹の印象だけで、これといった実害がないため警察にも相談のしようがない。
そのため、夏樹にできることと言ったらできるだけ残業をしなくてすむように、その日に済ませておかないといけない業務は頑張って就業時間内に終わらせ、定時とともに勤務先をあとにすることぐらいだった。
今日も早めに帰宅するはずだったのに、予定が狂ってしまった。
またあの誰かの気配の残る部屋に帰るのだと思うと、ついため息が漏れてしまう。
「夏樹? どうかしたのか? 口に合わなかったのか?」
一点を見つめたまま、卓上に彩りよく並べられた料理に箸をつけない夏樹に久志が声をかけた。
「――え、っあ……いや、すみません。すごく美味しいです」
あわてて料理に手をつけ口に入れると、夏樹は笑顔を顔に貼り付けた。
こんな高級な店に誘ってくれた久志には悪いが、ちょっとでも早く自宅に戻るには目の前の料理を食べてしまわなければならない。
不自然に笑顔を見せる夏樹の様子に、久志は片眉を少し上げただけで特に追求はしなかった。
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