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「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
料亭から出た所で夏樹がペコリと頭を下げた。
本当ならその彩りのいい見た目だけでなく、味も素晴らしいものだったのだろう。
だが、誘ってくれた久志に失礼に当たらない程度に少しでも早く目の前の料理を食べてしまうことに集中していた夏樹には、料理をゆっくりと味わう暇などなかった。
「――それじゃあ、これで失礼します」
「待ちなさい」
頭を上げると同時に、その場を去ろうとする夏樹の肘を久志が掴んだ。
「……えっ? 何ですか?」
「ちょっと待ちなさい。それとも何か急いで帰らないといけない理由でも?」
「…………いえ」
「それなら一緒に帰ろう。自宅まで送るよ」
いつの間に停まっていたのか、料亭の車寄せに来たときに乗ってきた車があった。
運転席には来たときの運転手ではなく、芹澤が座っている。
時間はすでに午後十時を過ぎている。秘書の仕事とはこんなに遅くまでしないといけないのだろうか。
「芹澤さん?」
「芹澤は同じ敷地内に住んでいるんだ。君を送り届けたら、そのまま一緒に帰る」
その疑問に答えるように、背後から夏樹の両肩に手を置いた久志が耳許で囁いた。
耳許で響く低音に夏樹の体が硬直する。
何度となくされる久志のスキンシップに未だに慣れない。
気がついたら夏樹は車の後部座席の久志の隣に座っていた。
「次は和食ではない方がいいかな」
夏樹の自宅へと走りだした車の中で久志が言った。
どうやら夏樹がろくに味わいもせず、ただ料理を口に運んでいただけだったのがバレていたようだ。
「えっ、いや……本当に美味しかったで……す」
「そう?」
「……あ、はい」
隣に座る久志から真っ直ぐに見つめられ、本当はちゃんと味わってなどいなかった夏樹の言葉が徐々に尻窄みになる。
夏樹のたあいない嘘など久志にはお見通しのようで、何だか居たたまれなくなった夏樹は思わず俯いてしまった。
真っ直ぐに見つめてくる視線から逃れることはできたが、久志が夏樹のことを見つめているのがわかる。
結局、自宅に到着するまで夏樹は俯けた顔を上げることができなかった。
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