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「あそこ、たぬき以外は結構感じよかったのにな――あ、そうか」
「何?」
「確か山下の叔父さんだったかが桜が丘で働いてて、うちの上役と知り合いだとか言ってたな」
恐らく噂好きの女子社員辺りから聞いたのだろう。
さすが、暇があれば給湯室にちょくちょく顔を出しているだけある。
その情報収集能力をもっと仕事に活かせば、営業成績も上向きになるのだろうに。
残念なことに修一は仕事が絡むとやる気がなくなってしまうのだ。
「あっと、もうこんな時間か。俺もそろそろ出ないと」
「いってらっしゃい」
「夏樹も気を付けろよ」
「うん、ありがと」
久志の差し金なのか、最近夏樹の外回りの仕事は以前の三分の一ほどになっていた。
残りの営業先も会社から割りと近い場所ばかりだ。
どれだけ自分を甘やかすのかと呆れながらも、久志から特別扱いされていることに夏樹はちょっぴりくすぐったさも感じていた。
「お疲れさまです」
「あ、はい。お疲れさまです」
仕事が終わった夏樹が一階のロビーに下りてくると、受付の前で芹澤が夏樹のことを待っていた。
役員の秘書がただの営業社員を送り迎えするために待っているだなんて悪目立ちしすぎる。
目立つのは嫌だったので、夏樹はせめて最寄りの駅前で拾ってほしいと言ったのだが「危ないからダメです」と芹澤から一蹴されてしまった。
――どれだけ子供扱いなんだよ。
「忘れ物はないですか?」
「――はい」
夏樹の目線に合わせて芹澤が腰を屈めて尋ねてくる。
受付の美人女子からの、微笑ましいものでも見るかのような視線が痛い。
外に出る前、再度夏樹が受付の方を見てみると、そこに座った二人の美人女子が笑いながら小さく手を振ってくれた。
普通の男性社員なら美しい女性から手を振られて喜ぶところだが、夏樹はなんとも言えない複雑な顔をした。
妙齢の彼女らの笑顔は、一流企業の男性社員に向ける類のものではなく、はじめてのおつかいに行く親戚の子供を送り出す際に向けるそれであったのだ。
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