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鞄の中から携帯の着信音が聞こえた。
いつだったか修一が勝手に設定した、日曜夕方に数人の落語家が出演する長寿番組のテーマソングだ。
間の抜けた陽気な音楽に、現実に戻った夏樹が鞄から携帯を取り出した。
「はい」
『夏樹? ちゃんと帰り着いた?』
携帯の向こうから聞こえる久志の声に、それまでこわばっていた夏樹の肩からふっと力が抜けた。
『――夏樹?』
なかなか答えない夏樹に久志が訝しげな声を出す。
「あ、はい。すみません……今、家です」
『それならよかった。今日は送ってあげられなくてすまなかったね。どうしても外せない用があったんだよ』
「そんな……紺野さんも忙しいのに……」
『夏樹、紺野さんじゃないだろう?』
「――久志、さん」
きっとここに久志がいたら、良くできましたとばかりに夏樹の肩を抱いてくれたかもしれない。
強引で戸惑うことも多いが、それ以上に優しい。
今一人でいることの心細さもあって、夏樹は自分で自分の肩をぎゅっと抱いた。
『反抗的な夏樹も可愛いが、素直な君も可愛いね。すぐにでも抱きしめたいのに、君がここにいないのがもどかしいよ』
「なっ、何を言ってるんですかっ」
さらりと恥ずかしいことを言う久志に、いつもの調子に戻った夏樹が声をあげる。
携帯越しでよかった。きっと今の夏樹の顔を見たら久志はさらに聞くに耐えない恥ずかしい言葉を夏樹に浴びせかけるに違いない。
『元気になったようだね』
「……あ」
『夏樹、何でもいいから、何かあったら私に教えて欲しい』
「はい……あの……」
『うん』
「あの……っ、お疲れさまでしたっ」
夏樹は最後の一言を早口で言うと、自分から通話を切った。
昨日の今日で誰かが部屋に侵入したかも知れないとか、撮られた憶えのない写真が置かれてたとか、久志に言ってしまいたかった。
久志のことだ。言ったら必ずすぐに駆けつけてくれるはずだ。だが、毎日遅くまで忙しそうにしている久志の時間をこれ以上割いてもらうのは申し訳ない。
もっと素直に相手に甘えればいいのだろう。
だが、これまで誰とも付き合ったことのない夏樹にとって、たとえ勘違いからのこととはいえ自分のことを恋人だと公言している久志に頼りきってしまうのは、何だかハードルが高かった。
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