2 遭遇 その1

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 その日は目覚ましのアラームが鳴る前にスッキリと目覚め、朝のテレビの占いは一位になっていた。  毎朝、夏樹のことを敵のように吠える近所の犬は大人しかったし、通勤電車に乗る前に自販機でジュースを買ったら、お釣りが十円多く出てきた。  朝からちょっとした良いことが重なって、夏樹は何となくいい気分で出社した。  いつものように午前中はデスクワークをこなし、午後からは約束していた得意先を訪問する。  特に問題もなく、一日が終わるはずだったのだ。  夏樹はその日最後の得意先である私立の高校の事務室を訪ねていた。 「松本くん、たしか今日はこのまま直帰だって言ってたよね」  担当者との話が終わり、帰ろうとしていた夏樹を教頭の青嶋が引き留めた。  青嶋は夏樹の直接の営業相手ではない。  いつだったか、たまたま近くへ来たので顔出しに訪れていた夏樹を、青嶋が偶然見かけただけだ。  それ以来、青嶋は夏樹の何が気に入ったのか、夏樹が訪れるたびにどこからともなく現れ、事務用品の説明や備品の注文など自分の職務とは直接関係ないのに必ず同席するようになった。 「あ、はい」 「どう? この後、飲みに行かない?」 「……えっと、その」  確かに、夏樹にはこの後の予定など特にないし、このまま帰った所で独り暮らしの部屋で待っている人がいるわけでもない。  断る理由はないのだが、青嶋のことが苦手な夏樹はこの誘いには乗りたくなかった。 「あれ? もしかしてデートとか?」  返事を渋る夏樹の肩へ青嶋がなれなれしく触れてくる。  そうなのだ。この、間もなく六十を迎える、頭のてっぺんが寂しくなってきた信楽焼のタヌキのような青嶋は、事あるごとに夏樹へ意味のないスキンシップを図ってくるのだ。  大っぴらに公表してはいないが、夏樹の恋愛対象は男性である。だがタヌキは対象外だ。いくら性別が男でも、付き合うなら人間がいい。 「いえ……あ、はい」 「どっちなの。デートじゃないなら、たまには付き合いなさいよ」 「…………はあ」  結局、夏樹は上手い断り文句も思い浮かばず、他の職員も一緒だからと青嶋から強引に押しきられてしまった。
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