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「ほら、君も本当は待ちきれないんだろう? 照れなくてもいいんだよ」
「……やっ、俺……何も待ってませんからっ」
ほろ酔い加減のタヌキに夏樹の声は届いていない。
青嶋は夏樹の腕を掴む手に力を入れると、紫色のご休憩の看板が掲げてある建物の中へ夏樹を連れ込もうと強引に引っ張った。
「すみませんっ、ほんと……に用事があるんですっ!」
ここでタヌキに負けたらおしまいである。夏樹は渾身の力を込めて、ご休憩の建物内へ連れ込まれるのを阻止した。
「……松本くん?」
頑な夏樹の態度に、どうやら本気で自分が拒まれているらしいと、やっと気づいた青嶋が、夏樹の腕を掴む力を緩めた。
「あ、あのっ……俺、えっと……待ち合わせ……そう! 待ち合わせをしているんです!」
夏樹の説明に、青嶋が眉間に皺を寄せて怪訝な顔をする。
ただの待ち合わせでは説得力がないのだろうか、夏樹はさらにだめ押しした。
「すみません。実は俺、付き合ってる人がいて……もうすぐここに来るんですっ!」
「――本当なの?」
訝しげな顔をしている青嶋からやっとのことで離れた夏樹が、ぶんぶんと何度も首を縦に振る。
実際の所は夏樹に付き合っている人なんていないし、待ち合わせもしていなければ、その相手が来るはずもない。だが、そうでも言わなければ夏樹の貞操がタヌキに奪われてしまうのも時間の問題だ。
とりあえず誰でもいい。酔っていなくて、真面目そうで、強そうな人が通りかかったら協力してもらおう。
夏樹は鞄を胸に抱え、ちょっとずつ青嶋と距離をとりながら適当な人物がいないか辺りを見回した。
「松本くん?」
青嶋が苛立ったような声をあげた。
「は、はいっ……あ、来ました! この人です!」
もう、この状況から逃れられるなら誰でもいい。夏樹は偶然側を通りかかった男の腕を掴んだ。
「――俺、この人と今付き合ってるんです!」
咄嗟に腕を掴んだ男へ夏樹が無理やり作った笑顔を向けると、眼鏡をかけた長身の男が夏樹より頭ひとつ高い位置から無表情で夏樹の引きつった笑顔を見下ろしていた。
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