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男は、何も答えなかった。いつの間にか、父の手に柳葉包丁が握られていた。父は包丁を男の首元に当てる。喉仏の下あたり。それでも、男にその瞬間を悟られないよう一ミリほどの隙間は残している。
父が包丁を引いた。何の躊躇いも、迷いもなかった。男の首筋が鋭く切り開かれる。次の瞬間、勢いよく血が噴き出した。ビニールシートが真っ赤に染まっていく。「ごふっ……ぶほ……!」男の首筋が仰け反り、逆流した血液が口から溢れる。椅子に縛り付けられたまま体を悶えさせる。死の直前、合田さんが男から顔を背けるのが視界の片隅に見えた。蒼人会の若頭ですら直視できないほどの凄惨な光景、なのだろうか。
わたしは、何も感じなかったけれど……。
父は人肉料理人だ。
昔から、それこそ江戸時代と言えるぐらいの昔から代々続いている仕事らしい。捕虜や罪人を料理することで、兵の士気を高めたり、滋養を得ることができるそうだ。
今はそうした依頼はほとんどなくなったけれど、いわゆる裏社会ではまだ需要があって、父もそうした仕事を細々と続けている。月に一度開かれる蒼人会の定例会が今の主な仕事だ。
わたしが子どもの頃から、父はそんな仕事をずっと続けていたから、父の仕事に対する嫌悪感めいたものは何もない。むしろ子どもの頃は、父の仕事は社会に当然のものとして存在する職業で、人が同じ人の肉を食べることは当たり前に行われているものだとばかり思っていた。
家の食卓に人肉料理が出ることはなかったけれど、父の作る料理は生きたままの鳥や豚から料理するのがほとんどだった。たまに大きな牛をトラックで運び込むこともあった。きっと腕を錆びつかせないためにそうしていたのだろう。解体作業まで一人でやる父のことをわたしは凄いと思っていたし、実際に尊敬している。
でもわたしが小学生になった頃、そうした自分の価値観が普通の人とずれていることに気付いた。
誰も家で魚以外の生きた食材を料理することはなかったし、人肉の話題なんて一度も出たことがなかった。わたしが友達に、鳥を絞めるお父さんの真似をすると気味悪がられた。それからは自分の家のことを口にすることはなくなった。
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