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「…面会時間、間に合った?」
私はテーブルの上に準備していた夕食をキッチンに運びながら、冷蔵庫の前に立つ彼に近づき声を掛けた。
「ん?」
彼は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、開けた扉から首を覗かせこちらを見る。
「雪菜さんの面会時間…」
両手にラップのかかったお皿を持ち、彼の立つ位置の三歩手前で突っ立つ私。
「ああ…いや。今夜は間に合いそうも無かったから、寄らずにそのまま帰って来た。それ、中に入れるんだろ?」
彼は視線を私の手もとに下ろし、受け取ろうとお皿に手を伸ばした。
私はこくんと頷き、二枚のお皿を順に彼に渡していく。
「…もうすぐ紫陽花が枯れちゃう」
脈絡もなく、私はポツリと言葉を落とした。
「え?」
「咲菜ちゃんと約束したの。一緒に紫陽花の丘に行こうって。…先生と三人で行こうって」
……それは、三人で病院の庭で隠れてパイを食べた日にした約束。
あの夜、香川さんがこのマンションに来なければ、果たせたであろう約束…。
「…ああ、そうだったな」
彼は冷蔵庫の扉を閉め、私を見つめる目を細めた。
「咲菜ちゃんそれを覚えてて、今日『紫陽花いつ行くの』って聞かれて…。私は、先生と咲菜ちゃんとあの公園には行けない」
雪菜さんが生きていると知った今、私が足を踏み入れる訳にはいかない。
「…だから、先生が咲菜ちゃんを連れて行ってあげて」
彼と重なる視線が苦しくて、思わず目を逸らす。
「紫陽花が見たいなら、他の公園に見に行けばいい。紫陽花が咲いてる公園くらい探せばあるだろ」
彼は冷然とした口調で言って、ビールの蓋を開けそれを口に運ぶ。
「えっ…でも…あの公園は咲菜ちゃんのお母さんが好きだった公園だし…」
彼の素っ気ない態度に違和感を受け、言葉が喉元で止まった。
「咲菜はあの公園を知らないし、母親との記憶も残っていない。咲菜が知っているのは、写真の中の雪菜だけだ。…咲菜は、麻弥と一緒に紫陽花を見に行きたいんだ。あの公園に拘泥する必要は無い」
先生は躊躇いも無くさらりと言って、缶ビールを飲みながらリビングに向かって歩き出した。
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