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『あっ!』と、
絶叫と共に状況は一変した。時すでに遅しとはこの事だろう。
『こら! てめえぇ!』と、
強面の男性客は顔面を朱に染めながら剛の胸倉を鷲掴んだ。事の次第は、山盛りのタバコの吸殻を数人の客に撒き散らした不始末が発端だった。剛の表情は硬直し、
『申し訳御座いません!』と、
その場で平謝りしたが、当事者でない客までが高飛車に、
『にいちゃん! どうするのだ!』
『弁償して貰うぞ! 土下座しろ!』
『責任者、呼べ! 金返せ!』と、
興奮の坩堝の中で、剛を容赦なく責め立てた。項垂れる剛の足元を矢吹の嘲笑じみた息遣いが聞こえたが、彼は素知らぬ顔で通り過ぎた。剛は砂漠に一人取り残されたような窮地に追い込まれた。罵詈雑言は鳴り止まず、喪失感の中でただ時間だけが突風の如く吹き過ぎ、意識が煙のように薄まっていった。その時、
『彦坂君! どうしましたか?』
『大丈夫ですか?』と、
中村が剛の右肩に手を添えた。その肉声と手の温もりは息苦しい気持ちを解きほぐし、透明な二粒の水滴が瞬きと一緒に零れ落ちた。中村は、剛の哀れな姿と客の激怒に事態を察したのだろう、怒り心頭の男性客と数人の狼藉者に、
『御迷惑をお掛けし、申し訳御座いません。お怪我はありませんか?』
『ホール内は混雑していますので、事務所で事情を伺います。どうぞ…』と、
妙に落着いた口調で言った。その声には、相手の我儘を許さぬ響きがあった。そして、
『彦坂君は、顔と手を洗って事務所へ来て下さい』と、
優しく耳打ちをしながら両手で剛を抱き起こした。
剛は、無我夢中でトイレに走り込んだ。鏡の向こうに存在する自分の姿が哀れで、
「無様だ! 情けない!」と、
目を伏せずにはいられなかった。目の奥が悲しそうに真赤に滲んでいた。煙草のヤニや脂汗で汚れた顔に嗚咽が止まらなかったが、数分後、剛は必死に足を踏ん張り洗面所と訣別した。狭い事務所は、不可解な悪臭と狼籍者の息づかいが融け合っていたが、中村の鋭い瞳から烈々たる気迫が光のように放射しているのを剛は見逃さなかった。
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