六章

32/41
前へ
/257ページ
次へ
 横転した船からは油が漏れ出していた。油が浮かぶ海に炎が移るのは時間の問題であったという。  海は、風に煽られ、波は荒れ狂い、保安庁の船も近寄るに近寄れない。雪もその頃には強さを増して、海上の捜索も救出もはかどらなかった。  救出を求めてくる人びとが海の中で叫ぶ中、ひとりの男はいつ沈んでもおかしくはないアタッシュケースにしがみついていたそうだ。新調されたスーツの上着は波に濡れ、虚ろな眼差しは海の色と同じく濁りを見せる。男は助けを求めることもなく、アタッシュケースにしがみつく。夜の海に灯された光は、残骸に反射した。  保安庁の隊員は、油と塩水に呑まれながらも放心する男を助けることに成功する。  男はそのままアタッシュケースと岸に運ばれ、即座に病院へと運ばれた。  意識を失った男の素性を調べた刑事によると、男は手にぎっちりとブローチを握り締めていたそうだ。  ブローチには、イニシャル「R・k」が刻まれていたそうだ。  ブローチを頼りに素性を調べたが、乗船者の中にそのような人間はいなかった。  一ヶ月後、男の素性ではなく、ブローチの素性が判明した。ブローチは数量限定だった。  ブローチの購入者は代議員の娘だった。名前を上崎梨華という。歳は青年と変わらない。乗馬が得意な明るい娘で、わがままを言って船に乗り込んだそうだ。  目覚めた男に上崎梨華のことを問い質したが無駄だった。  二十の青年は記憶を無くしていたのだ。
/257ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加