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「――今も実家なのか?」
不意に久保に声を掛けられて、ドキリとする。
「……ううん。今は一人暮らし。」
ちらりと運転席に座る久保を見る。
長い信号待ちから解放されて、車が加速し始める。
「――あの親父さんがよく許したな。」
「父とは冷戦状態なの。意固地になってるだけだって分かってるんだけどね。」
「ふーん?」
前を走るのトラックの後ろ姿を見ながら、何となく父の大きな背中を思い起こす。
「――それに妹が医者になるって言ってくれて、医学部に行ってくれたから一安心なのよ。久保先生にも、その節はご迷惑を掛けました。」
しかし、久保は思案顔のまま黙り込む。
「……先生?」
亜希が首を傾げる。
ちょうど同じタイミングで再び信号に引っ掛かって、ブレーキを踏む。
「……『先生』は仕事中だけで充分。」
「――はい?」
「今はプライベート。名前で呼んでくれればいい。」
「名前……?」
「……もしかして名前、忘れられてる?」
亜希は小さく首を横に振る。
そっと久保の名前を口にしてみる。
「『貴俊さん』でしょう?」
一気に、頬が熱くなる。
(――嬉しい。)
好きな人に自分の名前を呼ばれるのが、こんなに嬉しい事だとは思ってもみなかった。
顔がにやけてしまう。
しかし、久保はふと郡山も『タカトシ』という名前だったと思い当たると、急に苦々しい表情になった。
「……貴俊さん?」
「あ、ごめん。」
「気に入らない?」
「いいや、そうじゃない。」
不安げな亜希の様子に肩を竦める。
「あのな、郡山の奴が漢字が違う『孝俊』なんだ。なんか急にアイツの喜びようを思い出してさ……。」
「また、郡山先生?」
亜希の呆れ声に、嫉妬の火力が増す。
「……気が付いてないのか?」
「え?」
「アイツ、亜希に気があるんだよ?」
久保に「亜希」と呼ばれて、不覚にも頬が赤く染まる。
そして、目が泳ぐ。
亜希は口が利けなくなってしまった。
重い沈黙が垂れ込めて、気まずい雰囲気になる。
久保もついさっきまで天にも昇る気持ちがしていたのに、今は逆に地獄の門の前に立たされている気分になった。
「……アイツの事が好きなのか?」
亜希がふるふると小さく首を横に振る。
「じゃあ、何? 俺への当て付け?」
車自体は渋滞を抜けたのに、こちらは膠着状態に陥る。
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