第1章

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 さっきよりも体を密着させて、少し腰をかがめる。杏の耳元に近づき小さな声で「ちゅーしたくなるから」と囁いた。  杏の背中を支えている手に、杏の緊張が伝わる。顔を上げない杏を眺めているとほのかに色づいた耳が見える。  悪戯心が少しでて、紅潮した耳に音が立つようにキスをすると、杏の体が大きく跳ねた。  ゆっくりと顔を上げた杏は潤んだ目で顔を真っ赤にしながら鞍馬を睨みつけ「僕だってちゅーしたい…でも義人が二人の時だけって言ったのに」と詰ってきた。  その仕草があまりにも可愛くて、周りに数百人いる事も忘れて理性が吹っ飛びそうになる。  音楽が徐々に小さくなり、ゆっくりと音が止む。大歓声の中、鞍馬が「杏ちゃん地面になんかある」と声をかけると、すぐに杏はしゃがんで地面をじっと眺め始める。  興奮した生徒達は誰も杏と鞍馬に注意を払っていない。いきなりしゃがみこんだ杏を気にとめる人間も誰もいない。 「あれ?なかったかな、杏ちゃんちょっと顔上げて」 「え?」  その瞬間、鞍馬はかすめるように杏にキスをした。  にっこりと笑って頬を撫でてやると、杏は唇を尖らせて「嘘つき…」と蚊の鳴くような声で抗議する。  その顔を見た瞬間、鞍馬は堪えきれずに杏を抱きしめた。  盛大な拍手と共に、文化祭は幕を閉じた。隣にいる杏は満面の笑みで、閉会の挨拶を眺めている。その顔を見ただけで、色々と頑張ったかいがあったな、と鞍馬はしんみりと思う。  他人から見たら当たり前の事でも、杏にとっては初めての事で。そして自分にとっても初めての学内共同作業だった。きっと、杏と関わる事が無ければ卒業まで自分もこの充実感を感じる事はできなかっただろう。  杏と一緒に文化祭を楽しめた事が何よりも嬉しいが、それに加えて共同作業という物に悪い感情は抱かなかった。最初は遠巻きにしていたクラスメイトも、準備の終盤になれば色々と話かけて手伝ってくれていた。  もちろん、鞍馬に話かける時はやや引き気味ではあったものの、それでも最初の時に比べたら随分と打ち解けたと思う。  今までの学校生活の中で、鞍馬は友達らしい友達ができた事はなかった。自分から作るつもりもなかった。  鞍馬にとって誰かとつるむ事は、面倒でしかなかったし、近づいてくる人間を信用する事ができなかった。  
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