第1章

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 美智子はゆっくりと息を吐き出すと、優しい手つきで頬を撫でてきた。気持ちがよくて開いていた目を、また閉じる。緊張で張りつめていた気持ちがゆっくりとほぐされていく。この温もりはいつも杏に幸せしか運んでこない。 「なんでここにいるの?お仕事は?」 「学校から電話もらって、杏が具合が悪くなったって聞いたの」 「…そっか。お母さん来てくれてありがとう」 「いいのよ。私には杏しかいないもの。大事な息子なんだから、何かあったらすぐにかけつけるわ」  ガラガラと乾いた音が部屋に響く。音の主はドアから汗だくで入って来た祐介だ。  相当急いできたのか、肩で息をしている。杏の姿を見た途端、脱力して床にしゃがみ込んだ。 「目、覚めたんだな。良かった…」  よろよろと杏の側に祐介は近づいてくると、肩を数回軽く叩いた。いつもの合図。  杏は祐介の後ろを眺めて、今から入ってくるであろう人物を待った。自分が具合が悪くなったと知っていたら、絶対に来てくれる。本当だったら誰よりも早く来ているはず。  杏に数回祐介も母親も声をかけたが、杏の耳には届かず、杏はぼんやりとドアを見つめ続ける。  ……なんで誰も来ないんだろう? もうすぐ来てくれるのかな。早く会いたい。ぎゅってして欲しい。大丈夫か、って言って欲しい。  けれど、杏の期待は空しくしばらく待っても誰も入っては来なかった。  頬に、濡れた感触。泣きたいなんて思ってない。泣いたら来てくれない。嫌われちゃうから、泣きたくなんかない。けれど、自分の意思に従わない体は勝手に涙を流し続ける。  声も上げずに、ただただ涙だけを零す杏を見て祐介は杏から顔を背けた。 「杏、よく聞いてね。義人くんは来ないわよ」  聞きたくない。そんな話は聞かなくていい。ここに来る。絶対に、義人は来る。 「義人くんね、お母さんのとこに来てくれたのよ。杏が寝ちゃってる時にね。自分はいなくなっちゃうから、杏の事を学校で面倒見れないって。でも、自分がいなくても他にも杏には友達が出来たし、お願いしたから安心してくださいって言ってた。なんでいなくなっちゃうの?って聞いたけど、義人くん何も言ってくれなかったわ。あの子、泣くように笑うのねぇ。それでね、面倒見れなくてすいませんって頭下げて、その後に大人になったらまた杏と仲良くしてもいいですかって。ふふ、ほら杏これ見て」
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