第1章

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 振り返り、恵里香の顔を見る。さっきまでの形相をするりと隠し、まるで獲物をいたぶる猫のような目で鞍馬を見据えている。ゆっくりと開かれる口。そこからでてくるねっとりと絡みつくような甘い声。 「私ね……」  話された内容に、鞍馬は息を飲んだ。さすが自分の母親なだけはある。鞍馬が一番痛い所を突くのがすこぶる上手い。  言うだけ言うと、恵里香はうっすらと目を細めて楽しそうにこちらを眺めていた。  部屋に戻ると、開けた瞬間に杏が飛びついてきたので「誰だか確認してから抱きつきなよ」と言うと、杏は「義人の事間違えるわけないよ」と腰に回している腕に力を込めた。  まさかさっきの話が聞こえていたのだろうかと、体に緊張が走る。 「誰か帰ってきたの?お家の人?どこか体が悪いの?怖い声が聞こえたよ」  杏は恵里香の金切り声を聞いて、勘違いをしたらしい。 「ん?ちょっと体が悪いっていうか、頭っていうか…、機嫌が悪いみたいだから杏ちゃんの挨拶は今度にしような」 「ご挨拶しなかったから、怒ってるの?挨拶はちゃんとしなくちゃだめよってお母さんにいつも言われてるんだ。そうしないと、できてないって思われちゃうんだって。だから僕がすぐにあいさつしなかったから怒ってるんじゃないの?」 「違う。杏ちゃんに怒ってるわけじゃない。俺にだよ」  キョトンとした顔で、杏は「義人は良い子だよ?」と首を傾げた。この歳になって自分の事を良い子と言うのは杏くらいしかいないだろう。 「義人怒られたの?僕も一緒に謝ったら怒らなくなる?」  自分を庇おうとする杏の姿勢が嬉しくて、小さな唇に軽いキスをした。杏がいればいい。誰も自分を必要としてくれなくていい。杏さえ自分の存在を認めてくれるのならば、他の人間なんてどうなったっていい。  微かに震える自分の体を深く息をはいて落ち着かせようとした。杏は人の機嫌に敏感だから、少しでも雰囲気が違うと不安がらせてしまう。先程恵里香に言われた内容を頭の中で反芻(はんすう)する。  どうにもならない事実、現実。回避する術の無い問題。 「俺、杏ちゃんとずっと一緒にいたいなぁ」 「いれるよ?」 「うん。一緒にいようね。ほんと、俺今まで何も望んでこなかったんだけどなぁ。杏ちゃん以外、なーんにも本当に欲しいって思わなかったんだけどな」 「義人?」 「…早く大人になりたいね、杏ちゃん」
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