ケンジ

4/5
前へ
/190ページ
次へ
「健二さんなら、他に良い相手が直ぐに見付かるわよ。」 慰めの言葉のつもりも無いであろうそんな台詞を吐き捨てて、 既に用意してあった印鑑に朱肉を着けた彼女がそれを押した。 テキパキとそれを封筒にしまっては、いつの間に用意していたのか知りもしないキャリーバックに手を伸ばす。 「長い間、お世話に成りました。」 「此方こそ」 こんな時、笑顔で出ていく妻に何て返事をするのが正解だったんだろう‥ 立ち上がり、キャリーバックを転がす彼女が廊下に続く扉の前で立ち止まり「ふふふ‥」と笑った。 その不可思議な行動に眉を寄せて、ただ黙って見守れば 「貴方は、一度だって私を必要とはしてくれなかったわね‥」 振り向きもしない彼女の頭が少しだけ下がり、言葉の語尾が弱まっていくのを聞いて初めて、少しだけ後悔した。 後悔したから、だからといって 今さら引き止める理由も見当たらず、黙れば「じゃぁね‥」と扉の閉まる音と共に最後の言葉が残された。
/190ページ

最初のコメントを投稿しよう!

75人が本棚に入れています
本棚に追加