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その後のいくちゃんは営業スマイルを貼り付けた事務的な対応を崩さなかった。
次の打ち合わせの予約を入れて外へ出れば、吹き付ける3月の海風はまだまだ冷たくてトレンチコートの紐をキツく縛る。
それでも遮るものがなく降り注ぐ日差しは眩しくて、次からは日傘が必要だと簡易的に手をかざしてサンドベージュの乱角ストーン貼りの階段を降りて白い白い門塀を抜けていく。
別世界と日常の境界を一跨ぎして、海岸沿いの私鉄の駅前まで続く長い緩やかな坂を下っていくと途中の木々は薄桃色の蕾を付けていた。
あの日桜は咲いていなかった。
まだだったのか、散った後だったのかーー。
過ぎた時間の長さは、鮮明だったはずの記憶も感情も曖昧にさせる。
いくちゃんはみんなに全てを話せって言ったけど、簡単に話せるものじゃない。
複雑な家庭環境だから…
当事者達は気にしなくても、煩い外野はどこにでも存在するから。
冠婚葬祭は地味に済ませなきゃ、肩身の狭い思いをする羽目になる。
知られずに済むなら、その方がいいことだってある。全てをさらけ出して幸せになれ、だなんて。恵まれた人間の考えることだろう。
時折強くなる海風に煽られる毛先を手で抑えながら、小高い丘から見下ろす民家と民家の向こうには穏やかに煌めく海の水面が見えた。
私だって…祝福されて嫁ぎたいという思いに嘘偽りはない。ただ、秀のことは悪目立ちさせたくない。
式は6月。
それまでにやらなきゃいけないことは沢山ある。
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