第1章

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 中里春人はいつものように、北塚田駅北口から徒歩一分の居酒屋「道楽」の引き戸を左手で開けて入ると、カウンターの一番左の席が空いているのを確認し、そこに座った。  春人はなぜか、一番左端の席に座るのが好きである。電車でも空いているときは左端の席に座るし、歩道のない道を歩くときは必ず左側を歩く。左利きだからそうなるのだろうか。  「道楽」は、カウンターに8席、4人掛けのテーブル席が2つしかない、定員16名のこぢんまりとした店である。カウンターの奥にいるのは店主の坂下里香。春人はバツイチの独り者となってからは、週に2、3回、バランスの良い夕食を食べるために道楽に通うようになった。夕食を食べに行くというより、里香の顔を見に来るといったほうが正しいかもしれない。  実は里香は、春人の中学時代の同級生である。一年ほど前にたまたまSNS(ソーシャルネットワーク)でつながり、同じ市内に住んでいることが分かった。里香が店をやっていると知った春人はその店を訪れ、28年ぶりくらいの再会を果たした。そして、久しぶりに会った里香の魅力に取りつかれてしまった春人は、足しげく店に通うようになったのである。  里香は、芸能人のような整った美人ではないかもしれないが、長身でモデルのような体形をしており、なにか底知れぬ魅力のある女性である。いつも笑顔でいることもあって、男性にものすごく人気があった。春人以外に、毎日店に通っているような男が何人かいた。里香は関西弁を話し、厳しいことをズバッと指摘してくる、まっすぐな性格のため、春人のようなM(マゾ)気質の男から絶大な支持を得ていたのかも知れない。  週に1~2回程度、里香の母親が手伝いに来て厨房に入っていた。里香の母はもう70歳近い歳と思われるが、背筋がシャキッと伸びていて健康的だ。あまり言葉を交わすことはないが、いつも微笑みながら里香とお客の話を聞いている。  その日春人は、肉じゃがと刺身三点盛り、それから日本酒を少し大きめのお猪口に一杯だけ注文した。春人はビールを飲まない。たまに飲み会のときなどにビールで乾杯だけすることはあるが、それ以外は自分でビールを注文することなどなかった。苦いものをわざわざ好んで飲む必要はないと考えていた。どちらかというと、甘いコーラやジンジャーエール、カルピスとかフルーツ系の飲み物が好きだ。もちろん家にも全くビールはない。
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