第一章

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 コトン、と脳の奥の方に何かが落ちたような音で、入江は目を覚ました。彼はフローリングの床に直に横たえていた身体を起こすと、ふらふらと立ち上がって、深呼吸をしたあとぐっと伸びをした。板の上に不自然な格好で眠っていたので、身体の節々が痛い。もうそんな歳かな……、と彼は思う。少し長めの黒髪をくしゃりと掻き回す。  目覚めると同時に感じる絵の具の匂いに、彼は少しほっとする。昨日――正確には今日だが、明け方まで制作に向かっていて、アトリエでそのまま眠ってしまったらしい。床に散らばる絵の具のチューブと、真ん中に据えられたキャンバス。ほかにこの部屋で目に付くものはといえば、壁にかけられた大きな絵だった。それは入江が日本絵画展で二十六歳の時に金賞を獲ったもので、片隅に「Tomoho Irie」とサインがある。入江友穂、それが彼の名前だった。  一般的に知る人は少ないが、彼の名前はある業界では驚異的な知名度を誇っていた。現代アート界、入江が身を寄せている業界に名前を付けると、必ず「アート」という言葉が入る。入江は東都芸大を現役で卒業し、その翌年にはコンテンポラリーアート界で若手の登竜門とされている「新衛会」で特賞を獲得。その後、日本絵画展で金賞を受賞することになる。  彼のコンテンポラリー画家としての経歴は華々しいものだった。各専門誌はセンセーショナルに入江の登場を報じた。現在二十九歳になる彼は、まだその恩恵を受けている。彼の描く絵はすぐさま買い手が付き、信じられないような高額で引き取られていった。入江自身、そのことを誇りに思っていた。決して声高に自慢するような無粋なことはしなかったが、自分の描いた絵画を見ながら酒を飲むくらいには、自分自身に心酔していた。この輝かしい道は永劫続くような気が、彼にはしていた。  ――二か月前までは。
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