第一章

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 入江はアトリエを出ると、キッチンに向かった。電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。お湯が沸く間にマグカップにコーヒーを入れ、少し待てばケトルの音が鳴る。彼はマグカップで温かいコーヒーを飲みながら、ふとキッチンテーブルに目を遣った。そこには、ルービックキューブが無造作に置かれている。シンプルな彼の居住空間に玩具があるのはとても異質な感じを与えたが、これこそがいまの入江の生活の基盤だった。  彼はマグカップを置いて、ルービックキューブを手に取る。そして、一度目を瞑った。決心したように目を開けると、順繰りに四面体の側面を確認していく。そこには無秩序に赤、青、白、緑、橙、黄のブロックが並んでいる。その中の、青と緑が、入江には灰色に見えた。その色が「青」と「緑」だということは純然たる事実として理解していたが、彼には「それ」が「灰色」に見える。  この現象は、二か月前から始まった。二か月前、唐突に彼の視界に灰色の面積が多くなった。「緑」という色が消えた。木々の色も、お気に入りのネクタイも、絵の具も、「緑色」はすべて「灰色」になった。入江はこの事実に直面して、ひどく狼狽えた。彼はまず眼科医に相談した。すると眼科医は、「精神疾患による一時的な色盲だろう」と結論付け、精神科医への紹介状を入江に渡した。彼は今度は精神科へ行った。すると精神科医も眼科医と同じことを言う。血圧と体温を計ったあと、おかしな質問ばかり浴びせられた。入江はそれに辟易して、異常な精神病患者にされる前に病院を去った。  しかし、入江もまた、この病気が一時的なものだと信じていた。その根拠のない自信が崩れ去ったのが、一ヶ月前だった。「青」が消えた。  そこで入江は悟った。この病気は治らない。一ヶ月置きに次々に色彩が消えていき、最後には視界はモノクロになってしまうのだ。そう思い至って、彼はあっさりと諦めた。自分のこれからの画家としての「輝かしい」人生を。
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