第1章 消えた滝本

6/42
前へ
/200ページ
次へ
 あたしはまともな社会では生きられない。アウトローであるあたしを雇うことは調査会社の経営者である滝本でもギリギリの線だとは判ってはいるが、あたしはこれが止められない。そしていつでも役に立てるように(と言うのは若干の言い訳だけど)、日本にいる時はちゃんと修行もしていた。  大きなすり鉢に大量の砂を流しいれたものの前に立つ。  日本のスリは昔からこれで指を鍛えた。だから女スリのことを、すり鉢姫とも呼ぶ。  右手人差し指と中指を屈伸させて気合を入れた。  ゆっくりと砂に突っ込む。そして自由自在に動かせるまで、ひたすら砂の重さと格闘する。額に汗が浮かぶほどの集中を要する。あたしは納得出来るまで、そうやっていた。  季節はもう夏で、外はうすぼんやりと曇ってはいたけど気温は高そうだった。  つい眉間に皺がよる。  何だか―――――――――  空気が重い気がするのだ。・・・緊張している?あたしが、何で?  普段から気配を敏感に感じる生活をしている。だから虫の知らせってやつかもしれなかった。  あたしはこの2時間後、この時のざわざわした気持ちを思い出すことになるのだ。  わざわざ持って行ったスーツケース一杯に詰め込んだお土産を渡しに訪れた、滝本の調査会社で。  久しぶりのレンガ作りの建物に足を踏み入れる。  入口すぐの階段を上がれば、滝本の調査会社がある。  あたしは逃げ降りたこともあるこの階段を荷物を抱えて上る。そして、立ち止まった。 「――――――あれ?」  ガランとした階段の踊り場に自分の声が響いた。  調査会社のドアの前でしばらく立ち止まる。  なぜなら、ドアには張り紙が。  ―――――――現在新規案件の受付はしておりません――――――――  ・・・うん?何で?  過去に大物政治家の妻とワンマン企業の社長との不倫騒動のすっぱ抜きで有名になってしまったこの事務所は、それなりに忙しい。  だけど仕事が趣味だと言い切る社長の滝本筆頭に、プライベートは全く謎に包まれているここで働く面々も、まさしく仕事の鬼、なのだ。  休日や休み時間なんてないと思って間違いない。そして皆それを楽しんで満足しているようだったのに。  新規案件受付ない?何でよ。
/200ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加