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季節を束ねていた虫の聲が、夕立が、いつしか止んだ。
流れていった灯篭は、まるで神の仕組んだ悪戯のようで。
いつものように膝を抱えていた少女は、にゃあ、というか細い声に弾かれたように顔を上げた。
どこかしら扉が開いていたのであろう、灰色の毛並みを持った猫が迷い込んできているが、その猫が少女に気付くことはない。
動物は人間よりも視えない存在を察知する、と聞いていた。だから、迷い込んできたこの猫に希望を託したのに。
「……あなたも、私が見えないの?」
背を撫でようとした少女の右手は、虚しくするりと空を切った。彼女の手が、目の前にいる猫の毛を撫でることは敵わなかったのだ。
あまりに酷(むご)い現実から目を逸らそうとするものの、少女の脳裏を過ぎる単語は『死』だ。
「……私、死んでた、の…………?」
曖昧な記憶を掘り起こそうと、生きていた頃のことを思い出そうと、少女は必死に脳内の引き出しを引っ張り出す。
だが、どれもこれもこの屋敷の記憶ばかりで、彼女が『生きていた』頃の記憶は一切見つからなかった。
ほんの些細な辛さ、家族の顔、―――自分の、名前。
なにもかもを忘れてしまった少女は怯えるように己の膝を抱えた。そしてそのうち、ぽつりと小さな呟きを零した。
「家…………灯り……打ち上げ、花火……?」
分かる。人間として知っている単語は全て。だがしかし、もっと根本的ななにかを、彼女は忘れてしまっていた。
自分は誰だ。兄妹はいるのか。両親はいるのか。そもそも自分に、家族という社会は存在していたのか。
考えれば考えるだけ分からなくなっていく現実を必死に見つめていたが、それももう限界だった。
どぉんっ! と屋敷の傍で大きな音が聞こえた。打ち上げ花火が、夜空に大輪の花を咲かせたのだ。そんな幻の、儚い美しさを、少女は今という時間を誤魔化す材料にした。
「夏祭り……て、なんだっけ……?」
最早、言葉を知っているだけの少女の身体。体験していないことなら、知らないのは当然なのだ。
―――知らない?
一般庶民なら誰もが一度は参加したことがあるであろう夏祭りを知らない人間など、一体この星の下(もと)に何人いるのか。
再び打ち上がった花火をなんの感情もなく見つめながら、少女はこの時間が早く過ぎ去ることだけを祈っていた。
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