第1章 尻

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尻2  こいつは驚きだ。  どのくらい驚いたかといえば……。  そう、さきほど、不意の来客に玄関を開けたときの、あの驚きに等しい。  そいつは知った顔だった。良くは知らないがともかく知った顔だった。  名前は確か、桜井とか桜田とかそんな名だ。  俺の隣の部屋に越してきたとき、『つまらないものですが』と、確かにつまらないものを俺に手渡して一言二言挨拶をして、それから、確か田舎からジャガイモを送ってきたので、それもダンボール一杯に送ってきたので、食べきれないので、どうか食べてくださいと持ってきたことがあった。  俺は用心深い男だが、ドアスコープに知った顔があったら、そりゃドアを開けるさ。  昼間ならともかく、部屋の明かりをつけている時簡に来られたのでは、居留守を使うわけにも行かない。  それに外がやけに騒がしいのも気になったし、何か話でも聞けるかと……。  そう、さっきからパトカーやら救急車やら消防車やらのサイレンの音が聞こえる。それにヘリコプターが上空を飛びまわっているようだ。  何か事件でも、そう、近所で火事でも起きたのかと、或いは凶悪犯が包丁でも持って暴れているのかと思った。  そんなことに巻き込まれでもしたら大変だ。  外の様子を見るついでくらいの気持ちで、俺は無用心に、手に武器になるような物も持たずにドアを開けた。  夜中ならチェーンをかけてあったが、あいにくそんな時間じゃなかった。 「こんにちは、どうかしましたか」  と言い掛けて、いや、『こんにちは』も言い終わらないうちにその男は、桜井とか桜田とかいう男は、俺に掴みかかって、そして首筋に噛み付きやがった。俺はたぶん必至に抵抗して、おそらく奴の股間あたりに膝をぶち込んで、奴を突き放した。 「なにしやがる!」  そう叫んだが、奴の表情を見て俺は凍えた。  あれは人のそれじゃない。  狂ってやがる。  いや、狂っているというかイッチマっていた。意識も理性も全部ぶっ飛んじまっていた。 つづく
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