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和樹は、右手の力を弛め、吸い込まれるかのように手を伸ばした。
己の身を、暴風から守る目の前のそれは、低く唸るような音を立てながら激しく渦巻いている。二重、三重にも螺旋を描く、その中心へ向けて。
ゆっくりと、確実に伸ばされた和樹の指先が、渦の側面へ触れる。
渦の最も外側。激しく右回転する水流にその身を触れた時、考えられる事象は二つ。渦の強い吸収力に巻き込まれ、その餌食になるか。その水圧によって、触れた右手が犠牲になるか、だ。
しかし、この時の和樹には、そのような思考に至るまでの冷静さはなかった。ただ、少女の声が聞こえてくるその場所へ進むことしか頭にはなかったのだ。
しかし、渦に触れた和樹の手は、圧力に歪むこともなく、その身を呑み込まれることもなかった。
手を伸ばすだけでは、中心まで至ることが出来ず、一歩、また一歩と前進していく。和樹の身体が渦巻き入り込むまでに至っても、その身に何の異常もなかった。
彼の目に移るそれは、彼自身には触れることが出来ないらしい。どういう仕組みであるのか、そこまでは分からないが、今すぐ理解する必要もないだろう。
和樹は、深く息を吐きだし、今一度、淡い輝きを放ちながら宙に浮かぶ指輪を視界に捉える。
その時の彼は、既に分かっていた。この指輪に触れた瞬間に、もう、これまでのような生活に戻れないということを。
「"インドア平凡主義者"か…」
不意に、一週間前にとある少女が発した言葉を思い出す。
確かに、彼は平凡な日常を愛していたし、これからも続くものだと思っていた。誰しもそう考えるはずだ。だが…
これからは、多少の特別感がある生活も悪くないか、と、和樹は目と鼻の先にある指輪へと手を伸ばした。その口元は、不思議と綻んでいた。
"私は、あなたを待っていました──"
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