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歩は頑なに池から出ようとしなかった。
多恵もそれ以上はなにも言わなかった。指輪を探す指先に、神経を集中する。
どのくらい、そうやっていたのか。
「――あっ!」
多恵は、短く声をあげた。
指先に触れた、小さく硬い感触。つまんでみると、丸い輪がはっきりと感じられる。
「あった……、あったわ!」
多恵は右手を高くあげた。その指先で、深紅の宝石が陽光を跳ね返し、きらりと輝く。
リングの内側をたしかめると、そこには「ヒサカワレイフジンニコレヲササグ」と刻印された文字が読める。久川令夫人にこれを捧ぐ。間違いない。久川家の紅玉の指輪だ。
「良かった、多恵様。さあ、早くそれを桜子様へ――」
「ええ!」
ぬめる水で手でもすべらせたら大変だ。多恵はたもとから白いハンカチを出し、指輪を大切にくるんだ。そしてそれをふところにしっかりと納める。
安堵のため息をつき、もう一度袂の上から指輪を抑えた時。
「……え?」
多恵は、妙な物音を聞いた。
低く、地の底から湧き上がるうなり声のような。
「なに、今の……」
歩も同じうなりを聞いたらしい。
ふたりが顔を見合わせた瞬間。
それは、きた。
大正十二年九月一日、午前十一時五十八分三十二秒。
神奈川県西部から相模湾を経て、千葉県房総半島先端に到達する大断層が、動いた。
その動きは、帝都東京を中心に、関東南部の広い範囲に震度5から震度7を超える凄まじい揺れをもたらした。
関東大震災の、最初の揺れである。
日本史上もっとも甚大な被害をもたらした天災の、始まりだった。
ずん!と足元を突き上げるような揺れに、大地がふるえた。
「きゃあああっ!」
多恵は悲鳴をあげた。
立っていられず、そのまま池の中に転倒する。
東京の大地は、その上に乗っているすべてのものを容赦なく揺さぶり、振り落とし、なぎ払った。
まるで巨大な手に全身を掴まれ、上下に激しく振り回されているみたいだ。身体を起こすこともできない。
池の水が鼻にも口にも流れ込む。咳き込み、もがき、多恵は必死に起き上がろうとした。
なにが起きたのか、理解することも、考えることすらできなかった。
最初の揺れがおさまりかけ、多恵はようやく水面から顔をあげた。
大地はまだ余波にふるえていた。池の水は激しく波うち、庭木は嵐の時のように大きく揺れている。あちこちでもうもうと砂埃があがっている。
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