プロローグ~第一章 仮面の令嬢

30/42
前へ
/42ページ
次へ
「あれ見てよ、お兄様! まるでどぶ浚いみたい!」  甲高くはしゃいだ声が聞こえた。ちらっとたしかめると、桜子が自分の部屋の窓から身を乗り出し、多恵を指さして笑っている。 「ほんと、いい恰好!」 「ああ、そうだな。本当にいい眺めだ」  桜子の隣に立つ竜一郎は、多恵の白い腰巻きや、濡れて浮き上がる足の形に好色な目を向けている。  いつの間にか屋敷の使用人たちも庭の端や縁側に集まり、池の様子をのぞいていた。みな、雇い主の立場を笠に着た桜子たちの行為に眉をひそめてはいるが、令嬢と令息の意向に逆らってまで多恵をかばおうとする者はひとりもいない。  しかたがない。誰もみな、この屋敷での職を失うわけにはいかないのだ。  もしも多恵が指輪を見つけられなければ、次は屋敷の使用人たちが総出でこの広い池の水をすべて掻い出し、底の泥を浚って探さなくてはならない。  ――させられない、そんなこと。女中も下男も、毎日毎日こまねずみのように忙しく働いているのに。これ以上よけいな仕事を増やして、彼らを困らせることはできない。  多恵は必死で池の底をさぐり、指輪を探した。  さいわい水底は玉砂利ではなく、泥が薄くつもっているだけだ。丁寧に探れば、そこに沈んでいるものに指先が当たる。  厳しい陽光がじりじりと背中を灼き、汗がしたたり落ちた。曲げた腰や膝が痛み出す。澱んだ水の生臭いような臭いが、腕から全身にまで染みこんでいくようだ。  その時、 「多恵様――多恵様!」  高い子どもの声が多恵の名を呼んだ。 「多恵様、ぼくも手伝います!」 「歩さん」  多恵はようやく顔をあげた。  額の汗をぬぐい、背を伸ばす。そのとたん、くらっと目眩がした。 「大丈夫ですか、多恵様!」  粗末なキャラコのシャツに下穿きだけの恰好になって、小柄な少年が池に飛び込み、多恵のすぐそばに来ていた。池のほとりには、彼が脱ぎ捨てた白絣の着物と兵児帯がある。 「だめよ、歩さん。……私を様づけで呼んではいけないって、家令の米島さんにもいつも言われているでしょう」  苦しげな呼吸を抑えながら、多恵はかすれる声で言った。 「いいえ。ぼくにとっては、多恵様もこのお屋敷のお嬢様のおひとりです。多恵様だって旦那様の――!」 「黙って、歩さん」  砂を噛むように、多恵は言った。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加