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先年、久川邸で働いていた両親を流行り風邪で亡くした歩は、男爵夫妻の慈悲にすがるという形でこの屋敷の下働きとして住み込むことを許されていた。
聡明な歩は尋常小学校を卒業する時、担任教師から上の学校への進学を強く勧められた。だが、吝嗇な男爵夫人がそんなことを許すはずはなかった。それどころか、半人前の小僧など、食わせ、着させてやっているだけで充分だと、歩にろくに給料も支払っていない。
そんな歩を、ほかの使用人たちも犬か猫のように扱い、自分がやりたくない汚れ仕事やきつい屋外での作業を次々に押しつけた。
多恵だけが、歩を自分と同じ人間として扱い、陰になり日向になりかばい続けた。
一度、どんな理由があったのか酷い癇癪を起こし、竜一郎が乗馬用の鞭で歩をめった打ちにしたことがあった。その時、多恵は身を挺して歩をかばった。結果、多恵の背中にも歩と同じく、縦横に鞭の痕が刻みつけられることになってしまった。
竜一郎や桜子にこびへつらい、彼らと同じように歩をさげすんで虐げることは簡単だったろう。だがそれをしてしまえば、多恵自身、自分もまた人間としてまともな扱いを受けられない身であることを認めることになってしまう。親がいないから、貧しいからと、それだけで歩を差別することは、自分自身を貶めることだ。
誰からも守ってもらえない歩の孤独な境遇が、同じような日々を強いられる多恵の心を引き寄せたのかもしれなかった。歩をかばうことは、傷つけられた自分自身の心をもかばうことだった。
歩は、多恵の生まれを知ると、彼女にも「多恵様」と敬語を使うようになった。桜子と同じ久川家の令嬢だと見なすようになったのだ。そんな扱いをしてくれるのは、無論、歩だけだ。
歩が無心に向けてくれる敬慕の眼差しはうれしい。誰もかばってくれない中、この少年の優しさにどれだけ救われてきただろう。
けれど今は、屋敷の実務を取り仕切る家令の言いつけを守らなかったと、あとで歩が咎められることになるかもしれない。それは、多恵自身が折檻されるよりもつらい。
多恵の懸命の拒絶に、歩も唇を噛んで黙るしかなかった。
多恵はふたたび池の中に両手を突っ込み、指輪を探す作業に没頭した。
歩も同じく、懸命に水底を浚う。
「もういいわ。向こうへお行きなさい」
多恵が小声で言っても、
「平気です。ここを手伝うなとは、誰にも言われていません」
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