プロローグ~第一章 仮面の令嬢

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 財閥の中核はやがて最初の絹織物の生産・販売から、日本と諸外国が必要とする品々を売り買いする国際貿易業に移行した。  その経済力が日露戦争に果たした役割は大きく、その功績により久川敦は男爵位を授けられた。  士農工商の身分制度が撤廃されたのち、新たに設けられた特権階級、華族。明治六年に制定された華族令では、大きく三つに分けられている。  平安の昔から宮廷に仕え、天皇家のもっともそば近くにあった公家華族。江戸時代の大名や大身の旗本などが叙爵された武家華族。  そして維新の元勲や、日清、日露の戦争でめざましい軍功をあげた者などが「国家に勲功ある者」として新たに爵位を与えられた勲功華族、いわゆる新華族。  久川家はこの新華族だ。  初代男爵亡きあと、爵位は嫡男の辰雄に受け継がれた。その時には、久川家はすでに財閥運営の第一線から退き、株式保有などでその利益を享受する創立者一族というポジションに落ち着いていた。辰雄の第一の肩書きは貴族院議員だった。  財閥が創立者一族の意向を確認したい時は、第二代男爵ではなく、初代男爵未亡人へお伺いをたてるのだという。  夫と同じく軽輩の下士の家柄に生まれ、開国の激動をともに生きのび、そして財閥の発展を支えてきた賢夫人・慈乃。長年、夫の相談相手を勤めてきた彼女は、いつか夫と同じく経済や国際政治に精通するようになり、夫が四十代半ばで病に倒れた時も、それまで久川敦のワンマン経営であった久川財閥を、信頼できる重役達の円卓会議で運営する合議制に移行させ、自らは創立者一族として会議の後見をする立場に退いた。  久川男爵は財閥の代表取締役ではあるが、独裁者ではなくなった。ひとりの天才的な冒険商人によって急激に発展した財閥は、以来、複数の知恵と常識によって堅実に運営されていくこととなった。その堅実さが、第一次世界大戦による欧州市場の大混乱やその後の世界的不況の中でも財閥を守り続けているのだ。  もしも彼女が片田舎の牧場に隠居しておらず、東京で家族とともに災難に巻き込まれていたら、久川財閥は完全に崩壊していたかもしれない。彼女は、久川家のまさに扇の要なのだ。  こうして向かい合っていると、それが良くわかる。この老婦人の、器の大きさが。
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