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「けれど、児島子爵が先祖伝来の土地を手放すことになったのも、自業自得というものでしょう。華族に列せられながら妻子もかえりみず、場末の芸者にうつつを抜かして、挙げ句の果てには博打ですってんてんなんてね。自宅の梁で首を吊る羽目にならなかっただけでも、幸せですよ」
慈乃の表情は能面のようだ。何の動きもない冷たい顔のようでありながら、わずかな仕草、視線やうつむき加減だけで、喜びも同情もいたわりも、ゆたかに表現する。ただし、不注意な者や洞察力の足りない者に、その複雑な想いを読みとるのは難しいだろう。
まるで彼女の存在自体が、人間の出来を図る試金石のようだと、青年は思った。
「それに、あなたが彼の地所を買い取ったおかげで、彼の家族も当面は暮らしていけるのでしょう。夫人と子どもたちはあなたに感謝するべきね」
慈乃の口調が、少しだけやわらかくなった。
「さあ、どうでしょう」
青年は照れ隠しのように軽く肩をすくめる。日本人は滅多にやらないそんな気取った仕草が、彼にはとても良く似合っていた。
「彼の嫡男に、進学の意志があるなら学資を援助してやると申し出たのですが、向こう臑をいやというほど蹴飛ばされましたよ」
その言葉に、慈乃は初めて声をたてて笑った。
「それで、どうするつもりです」
「あと二年後、あのガ――いえ、少年が高等小学校を卒業して、中学か高校への進学を志し、ぼくに頭を下げてきたら……、金を出してやるつもりです」
「蹴り上げられるほど、ひどく恨まれているのに?」
「ええ。敵愾心に燃える男は、単なる向学心を抱いた若者よりも、はるかに大きな功績をあげるものです。ぼくにとっても、けして損ではない投資になるはずです」
青年はそう言って、少し皮肉っぽく笑った。
「それは、あなた自身のご経験かしら? 『三ツ目のアレクセイ』(Third Eye's Alexis)」
そのとたん、青年の方がびくりと震えた。
余裕の笑みを浮かべていた口元がこわばる。
それは、誰も知るはずのない古い通り名だった。彼自身、思い出したくもない過去とともに記憶の奥底に封じ込めようとしていた、古傷のような名前。
「阿久津(あくつ)……、阿久津直之(なおゆき)です。今は」
声が震えるのも、抑えきれない。
青年――直之はひとつ、深く息をついた。一瞬にして虚をつかれた動揺を押さえ込み、さきほどまでの落ち着きを取り戻す。
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