6人が本棚に入れています
本棚に追加
が、それはあくまで表面上のものだった。肋骨の内側ではまだ、心臓がばくばくと早鐘を打っている。
海の果ての島国の、それもこんな山あいの片田舎で隠居暮らしをしている婆さんが、どうして知っているのだ。誰にも話したことのない、自分の過去を。それを象徴する通り名を。
それすらも、久川財閥の情報網にひっかかってきた話だと言うのか。
あのころ自分は、奇跡のようだと言われた。東洋の伝説にあるように、その額に、悟りを開いたあかしの第三の目を持っているみたいだ、と。小さなカードの裏に書かれた数字も、転がるさいころが見せる次の目も、すべて見通すことができる、奇跡の目。
本当はそれは、少し器用な指先と回転の速い頭とがもたらす、単なるぺてんにすぎなかったのだが。
「ええ、そうでしたね。貴族院議員、阿久津勝一伯爵の甥御さん。国政にお忙しい伯父上に代わって、阿久津家の持つ事業や農地の管理を、一手に取り仕切っておられるとか」
慈乃は淡々と言った。
「児島閣下やほかの、経済感覚に欠けた馬鹿な華族たちから、次々に事業や不動産を買い上げ、売り飛ばしているのも、阿久津家のお仕事の一環なのかしら? だいぶ評判が悪くてよ。阿久津家は伝統ある堂上貴族でありながら、やっていることはまるで阿漕な高利貸しだ、と。近頃では、阿久津伯爵が社交の場に顔を出しても、まともに話しかけてくる人もいないと言うじゃないの」
――この婆さん、いったいどこまで知ってるんだ。
喉の奥にせり上がる苦さを、直之は呑み込んだ。
「貴方も、お名前に『卿』をつけてお呼びしたほうが良いのかしらね」
慈乃の見えない両眼が、真っ向から直之を見据えている。その視線から逃げることができない。
「いいえ。ぼくは、阿久津伯爵の係累として華族に列せられてはいますが、彼の後継者ではありません。華族令はご存知でしょう? 爵位を相続する養嗣子は、六親等以内の男系男子から選ばねばならない。――ぼくは伯爵の妹の子。女系男子ですから」
「おや。あの伯爵閣下に妹さんがいらしたなんて。――ああ、そう。思い出しましたよ。たしか、かなり若くしてお亡くなりになったとうかがっていましたけれど」
「ええ。母が他界した時、ぼくはまだ一〇才でした」
「それはお気の毒でしたね」
そして次の質問を、直之は覚悟した。
母の話題が出た。次は当然、彼の父親について触れてくるだろう。
最初のコメントを投稿しよう!