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黒の背広はパッドで肩のラインを強調し、ウエストを細めに絞ってある。スラックスにはぴんと折り目がつき、真っ白な絹のシャツにわずかな曇りもない革靴。一縷の隙もない、見事な洋装だ。開国してすでに五〇年以上が経っているが、こんな片田舎ではこれほど完璧な洋装はまだ珍しい。
来客用の肘掛け椅子に座ったままでも、彼の背の高さ、すらりとした体つきは良くわかる。漆黒の髪はゆたかなウェーヴを描き、その下の瞳は――。
――瞳は……、この方の瞳は、何色と言えばいいのかしら?
こんな色の瞳は、見たことがない。すべての色彩をなくしたような、冷たい灰色。日本人のものではあり得ない。昏く燃えるような何かがそこで激しく渦を巻き、見つめていると、そのまま身体ごと吸い込まれてしまいそうだ。
桜子は思わず、腕に抱えたレンギョウの枝をぎゅっと抱きしめた。若い小枝が胸元でぽきりと折れた。
「何です、桜子さん。お客様の前で、お行儀の悪い」
祖母にたしなめられ、ようやく我に返る。
「あ! し、失礼いたしました。お客様がいらっしゃるとは気がつかなくて……」
「また女中たちと一緒になって、朝早くから庭いじりに精を出していたのでしょう。困った人ね。着ているものを良く確かめなさい。このあいだのように、頭に枯れ葉を乗せたままになっているのではなくて?」
そう言う慈乃の声は、言葉ほどきつくはない。優しさがにじみ、どこかおもしろがっているような響きがある。東京で生まれ育った孫娘が、北関東の山里暮らしを嫌がっていないことを、内心ではとても喜んでいるのだ。
「お着物は大丈夫? 裾や袖に泥はついていませんか?」
「はい、お祖母様。お屋敷に入る前に、ちゃんと払ってきましたもの」
桜子は菫色の矢絣のたもとをもう一度確かめた。帯はは山吹色の名古屋帯を一文字に結び、やや古めかしくマガレイトに結った長い髪は少し乱れているが、このくらいは大目に見てもらえる範疇だ。
「そう。それなら、こちらへ」
小さく笑いながら、慈乃は桜子を手招きした。
「直之さん。このお転婆娘が、わたくしの孫の桜子です」
「初めまして、桜子嬢。阿久津直之です」
立ち上がり、青年は軽く一礼した。その身のこなしも、整った容姿にふさわしく優美だ。
桜子もあわてて深く頭を下げる。
「直之さんは、阿久津伯爵の甥御さんです」
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