第1章

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 だからって、それを他人にしゃべるなんて。 「それとも私も、皆と同じく堅苦しい敬称でお呼びしたほうがお気に召しますか? 女三の宮さま」  からかうような、少し意地の悪いささやきに、わたくしは思わず身を硬くする。  その呼び名は「帝の第三皇女」という意味でしかなく、わたくしの身分、立場のみをあらわす呼び方。  柏木の言うとおり、本当は、そう呼ばれるのがわたくしは嫌でたまらなかった。  わたくしの価値は、帝の血筋という生まれだけ、それ以外にわたくしを愛する理由など何もないのだと、回り中から宣言されているような気がして。  わたくしが姫宮ではなく、帝の血もひいていなかったら、今、わたくしを「宮さま、姫さま」ともてはやしている人々はきっと、誰一人わたくしに見向きもしなくなるだろう。「女三の宮」と呼ばれるたびに、そう思えてならなかった。  もちろんほかに、本当の名前もあるけれど、それを知っているのはこの世に二人きり。やはりその名をくださったお父さまと、……もう、ひとり。  本当の名前を知られることは、身も魂もそのひとに預け、明け渡してしまうことだから。よほどのことがない限り、人に知られてはならない。  たとえば誰かを呪い殺そうとする時には、この秘められた真実の名前が大きな力を発揮する。真実の名を知って初めて、相手に呪いをかけることができるのだ。  怖ろしい不幸を招かないためにも、真実の名前はひた隠しにする。他人の妬みや恨みを集めがちな高位高官や、自らの身を守るすべを持たないか弱い女は、特に。世に明らかにするのは、死後のこと。  わたくし自身さえ、秘めたその名を思い出すことはあまりなかった。  わたくしにとって、もっとも親しんだ名前、これが本当のわたくしと思えるのは、お父さまのお声で慣れ親しんだ「紗沙」なのだった。 「紗沙」  柏木はわたくしの名を繰り返した。  まるで熱に浮かされるように、舌の上でその音をころがすように。 「女三の宮なんて、あなたには似合わない。あなたは紗沙だ。こうして間近であなたを見ると、心からそう感じる」  そう言って柏木は、わたくしの髪をひとふさ、手にとった。  わたくしは年令よりも小柄で子供っぽいと、よく言われる。けれどこの髪だけはふっさりとゆたかで、身の丈を越えるほどもある。  その髪をてのひらにすくいとり、柏木はそっと口元まで持ち上げた。  そして黒髪にくちづける。
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