第1章

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   一、 暁暗の姫宮(ぎょうあんのひめみや) 「……紗沙(さしゃ)。紗沙姫」  なつかしい響きが、わたくしを呼んだ。  紗沙、というのは、わたくしの幼名。  この名でわたくしを呼ぶのは、お父さまのほかは、乳母や乳母子(めのとご)のあこや――いけない、彼女も今は「小侍従(こじじゅう)」と名乗っているのだっけ――など、ほんの数人、本当に親しい人々だけ。  この六条院でわたくしを紗沙と呼ぶ人は、一人もいないはずだった。  四方に帷(かたびら)という厚い布を垂らした御帳台(みちょうだい)は、頭上も障子で覆われて、寝床というよりまるで小さな部屋のよう。風もなかなか抜けず、わたくしの寝息や体温が重たく籠もっているような感じがする。  なのにふと、肩のあたりに冷たい空気を感じて、わたくしは小さく身じろぎした。 「紗沙。眠っているの? 起きておくれ、紗沙」  優しい、親しげなささやきに、わたくしはほとんど無意識のうちに応えた。 「お父さま」  お父さま。わたくしの、たったひとりのお父さま。  今は墨染めの衣にお姿を変えられて、生きながらに彼岸(ひがん)へ渡られてしまったけれど。  わたくしに会いにいらしてくださったの? ひとりぽっちにしてすまなかったね、また以前のように父子(おやこ)で暮らそう、と、迎えに来てくださったのかしら?  うれしい、お父さま。  まだ半分眠ったまま、わたくしはふらふらと右手を宙へ差し伸べた。  その手を、強い熱い手が掴み、握りしめる。 「ひどいな、紗沙。まだ眼が覚めないの?」  いたずらっぽく、わたくしのほほを小突く指先。  わたくしを頭から飲み込むように、深く熱く包み込んでくる体温。  若木のようにさわやかで、凛と張りつめた香り。  ――深く仏道に帰依されて、朝夕の勤行の匂いが染みこんだお父さまのお袖とは、違う。 「えっ!?」  わたくしは一気に跳ね起きた。  思わず見開いた目の前には、おでことおでこがぶつかりそうなくらい近くに、冴え冴えとした若い美貌があった。 「……柏木衛門督(かしわぎえもんのかみ)!」  高い声をあげそうになったわたくしの唇を、すかさず柏木の右手がふさぐ。  薄縁の上に膝をつき、まるでわたくしに添い寝するように寄り添って。  わずかに触れた手のひらから、柏木の熱い体温が、大きく脈打つ鼓動が、伝わってくる。まるで無理やりわたくしの体内に流し込まれるみたい。
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