第1章

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 柏木は早くから横笛の名手として知られ、童殿上(わらわてんじょう)のころから、宮中での音楽の催しには欠かせない存在となっていた。  わたくしはと言えば、そのころはまだ、裳着にもほど遠いほんの子供。  内裏で行われる宴や催しも、昼はほかの女たち、女御、更衣、大勢の女房たちと一緒に御簾の陰から見ることが許されたけれど、夜は早々に寝所に追い立てられ、見物することはできなかった。  子供は早く寝なさい、の一言で、乳母と一緒に御帳台に押し込まれてしまった、あの夜。  そのくせ、乳母のほうが先に眠ってしまって。  小さくいびきをかいている乳母の横から、わたくしはするっと抜け出した。  だって、部屋の外からは人々の笑いさざめく声やかすかな歌声、妙なる楽の音が夜風に載って流れてくる。  格子には、篝火に照らされて、満開の夜桜が影を落とす。  とても眠ってなどいられなかった。  さいわい、宿直の女房たちもみな、こっそり宴を見物に行ってしまっていた。  几帳の影では、あこや――今の小侍従――が、乳母そっくりのすこやかな寝顔で眠っているきり。  誰に咎められることもなく、わたくしは薄い単衣一枚きりのまま、格子の外へ忍び出た。  夜の内裏は、昼間とはまったく違う世界に見えた。  ゆらめく篝火は建物にも庭木にも深い陰影を与え、その陰には絵巻物で見た魑魅魍魎がひそんでいるように思えた。  怖い。でも、どきどきする。  わたくしは息をのみ、遠く聞こえる楽の音に耳を澄ませた。  そんな時。 「こら。そんな恰好でうろついていたら、鬼か物の怪にさらわれてしまうぞ」  突然、頭上から声がした。  わたくしはあわてて上を――頭上に枝を広げる、桜の古木を見上げた。  そして、思った。  ……あんなところに、桜の精がいる。  夜桜をそのまま衣に写しとったかのような桜襲の直衣。紫裾濃(すそご)の指貫(さしぬき)。黒い冠は少し歪んで曲がり、しゃっきりと硬そうな前髪がその下からこぼれている。  篝火を映してきらきらと輝く、黒曜石の瞳。  物語絵から抜けだしてきたみたいな美しい若公達が、太い桜の古木によじのぼり、その枝の上からわたくしを見おろしていた。  それが、柏木だった。 「あなた、だぁれ。そんなとこで何してるの」  怖れ気もなく、わたくしは訊いた。 「逃げてきたんだよ、あっちから」
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