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気安く、柏木は答えた。そして視線で清涼殿――帝の御座所を示す。
そちらからはまだ、にぎやかな宴のざわめきが聞こえてきていた。
柏木は、薄い単衣一枚で突っ立っているわたくしを、まさか帝の姫宮などとは思わなかったのかもしれない。下働きの女童か何かと間違えていたのだろう。
「まったく、あんな飲兵衛のおっさんどもに付き合ってられるか。宵のうちからだらだら酒ばっかり呑んで、人の顔見りゃ、やれ唄えの笛吹けのって。俺は街角に立ってる芸人じゃない」
ぶっきらぼうな言い方に、わたくしは吹き出して笑ってしまった。
帝であるお父さまやいつも偉そうな大臣たちを、「飲兵衛のおっさん」なんて身も蓋もない言い方をする人なんて、今まで見たこともなかったから。
「俺もいきなり四位などもらわずに、夕霧みたいに六位くらいから始めれば良かった。身分が低ければ、あんな古くさい宴席に駆り出されることもないしな」
「帝の宴席に戻りたくないの?」
「ああ、もういやだね。今だって、酔い覚ましするって言って、やっと抜け出してきたんだ」
だから、と、柏木は、黒い瞳をいたずらっぽくきらめかせ、笑った。
「俺がここにいること、黙っていてくれないか?」
「うん」
わたくしはこくんとうなずいた。
「でもそのかわり、わたくしのお願いもきいて」
「……どんなお願い?」
「笛を吹いて」
わたくしは、柏木の胸元を指さした。直衣のふところからのぞいている、漆塗りの小さな美しい横笛を。
「え――」
「一曲だけでいい。ほんのちょっとでいいから」
柏木は少し困ったような顔をしたけれど、やがて微笑し、横笛を唇にあてた。
そして桜樹の上から聞こえてきた、音曲。
それはほんのひとくさり、一曲の半分にも満たない長さではあったけれど。
わたくしには、桜の花びらがそのまま笛の音に変じ、わたくしの頭上に降りそそいでいるように思えた。
やがて笛の音に乳母が目をさまし、わたくしは部屋の中へ連れ戻された。
一夜の夢は、それで終わってしまったけれど。
この桜の貴公子が、藤原大納言――その昔の頭中将、のちの太政大臣――の息子で、世に柏木の名で知られる若者だと、わたくしはあとになって知った。
柏木がわたくしのことを、実は朱雀帝の内親王だと知ったのは、いつだったのだろう。
それ以来、乳母の監視は厳しくなり、わたくしはもう二度と夜の庭へ抜け出すことはできなかった。
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