第1章

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 柏木に逢えたのも、ほんのわずか。彼の妹である新しい弘徽殿女御の局で、ものものしく几帳などをめぐらせてのこと。もちろん、直接口をきくことなど許されるはずもなかった。  それでも、几帳の厚い布越しに、わたくしは柏木の視線を感じていた。  ――そこにいるの?  無言のうちに、柏木の言葉が伝わってくるような気がした。  ――だから言っただろう。夜、一人でふらふらしていたら、鬼にさらわれてしまうって。あなたは鬼にさらわれて、そんな几帳の奥に閉じこめられてしまったんだね。  ――まさか忘れてはいないだろう? 俺のこと。あの夜の笛の音を。  乳母の言いつけどおり、扇をかざして顔を隠してしまったのは、姫宮としての慎みからではなかった。  肌に突き刺さるような柏木の視線が恥ずかしくて、几帳越しにでもこの紅潮した頬が彼に見透かされてしまいそうで。  やがてお父さまが退位され、わたくしも後宮を去ることになったが、それでも柏木の面影はこの胸から消えなかった。  女房たちのうわさ話に、柏木がまだ独り身でいること、妻を迎えるならぜひ帝の血を引く内親王をと望んでいることなどを聞くと、心臓がどくんと大きく高鳴った。 「まあ、柏木さまほどの若君なら、どれほど高望みしても分不相応ということはないでしょうけどねえ。内裏に出仕している若公達(わかきんだち)の中では、柏木さまに敵(かな)う方はいませんわよ」 「そうねえ。源氏の君のとこの夕霧さまも、悪くはないけれど。どうも真面目すぎて、何でも全部型どおりで、つまらないわ」 「あら、今上さまに勝てるお人なんかいないわよ。主上(しゅじょう)が一番お素敵だわ。お名前のとおり、滾々とわき出る澄んだ泉水(いずみ)のような方!」 「んまあ!! 今上さまを引き合いに出すなんて、畏れ多いわよ、あなた!」  うたた寝しているふりをしながら、そんなうわさ話に耳を澄ませた。  彼は、きっとわたくしを待っているのだ。そう思わずにいられなかった。  そしていつか、わたくしを迎えに来てくれるに違いない。歌物語の男君のように、月あかりのもと、今度は指貫を萩の露に濡らしながら。  ……そう思い、あの夜の貴公子の姿を脳裏に描くことだけが、御簾や几帳に、何よりも帝の姫宮という身分に、重たく暗く閉じこめられたわたくしの、たったひとつの空想の翼だった。
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