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それを感じた瞬間、わたくしはまるで身体中縛られたように、身動きひとつできなくなってしまった。
そして柏木は、ほほえんだ。
「しぃっ。お静かに、紗沙姫」
低くひそめてささやいても、その声は掠れることもない。水晶のように澄んで、硬い響きがある。
濃い青緑の上に透けるような白を重ねた、卯の花襲(うのはながさね)の直衣(のうし)。涼やかな初夏の色合いが闇の中にふわりと浮かび上がり、彼の美貌を若い月のように見せている。
冠の下からわずかに落ちる、黒い硬そうな乱れ髪。
袖からさやかな香りがこぼれる。
その香りは、わたくしの口元を覆う彼の右手からも、ほのかに立ちのぼっていた。私の皮膚にまで、じんわりとしみ通っていく。
ひたひたと押し寄せ、わたくしを押し包む、若い男の体温。
黒い瞳が鏡のようにわたくしを映す。
わたくしは、呼吸すら忘れたように、その瞳を見つめていた。
――いけないのに。
頭のかたすみを、そんな思いがよぎる。
こんなことしては、いけないのに。肌も触れるほど誰かをそばに近寄せるなんて。
吐息が髪を揺らすほど、その身の香りでわたくしを溺れさせそうなほど、わたくしに近づくなんて。
いけないのに。いけないのに。
同じ言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
その言葉が、わたくしの寝所にまるで盗人のように忍び込んだ柏木を責めるのか、それともその侵入に抵抗もしないわたくし自身を非難しているのかさえ、わからなかったけれど。
柏木がそうっと右手を離しても、わたくしは逃げることも、大きな声で誰かを呼ぶことすら考えつかなかった。
わたくしを真っ直ぐに見つめるその瞳から、目がそらせない。
なにもかもが、その瞳に吸い寄せられていく。
「どうしてわたくしの名前を知ってるの」
同じように声をひそめ、わたくしはささやいた。
柏木はうれしそうにほほえんだ。わたくしの声を聞くだけで、うれしくてたまらないというように。
「小侍従に聞きました。あなたは、本当はこの名で呼ばれるのが一番好きなんだと」
小侍従、あのおしゃべり!
乳母の娘で、赤ん坊のころから一緒に育ってきた小侍従は、わたくしにとっては実の姉妹よりも近しい存在だった。ただ一人の肉親であるお父さまや、自らの乳でわたくしを育ててくれた乳母にも話せないこと、ほかの誰にも言えないことでも、小侍従にはすべて打ち明けてしまう。
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