第1章

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 今はその豪勢な住居から、六条の大臣(おとど)とも呼ばれる。  先帝桐壺帝の皇子として生まれながら、母君の身分が更衣と低かったために、臣下に降され、源姓をたまわった。その尋常ならざるほどの美しさとあり余る才能から、光る君と称される源氏の君。  詩歌を吟ずれば天も涙し、舞えばあまりの美しさに鬼神がさらいに来るのではないかとうわさされたほどだったという。  後宮の奥深くで育てられ、日頃人の出入りも少ないわたくしのもとにさえ、その噂は伝わってきていた。  もちろんわたくしは、その姿を見たこともなかったけれど。  お父さまが主上として内裏に君臨していた時でさえ、小侍従がこんなふうに口をすべらせたものだ。 「その昔、源氏の君と左大臣家の大納言さま――その折りはまだ、頭の中将であられましたが――このお二人を較べて、満開の桜と名もない深山木(みやまぎ)とたとえた方があったそうですが。源氏の君と朱雀の帝では、桜の前の枯れすすき……あっ! し、失礼を申しました、姫さま! いえ、これはわたしの考えではなく、その、無責任なおしゃべりたちの勝手なうわさで……!!」  そう言う小侍従自身、無責任なおしゃべりの一人。  日頃、後宮から外へ出ることもないわたくしにとって、小侍従のおしゃべりは、唯一外の世界から吹いてくる風だった。  彼女たちのような女房は、思いも寄らぬ横のつながりを持っているらしい。たとえば姉妹や親類縁者であったり、たとえば友達であったり。それらの女たちもみな、同じく宮中や権門の家で働く女房、乳母たちだ。  たとえ雇い主どうしの仲が悪く、その家族は口もきかぬ、手紙の遣り取りもしたことがない、という家であっても、そこに仕える女房たちは雇い主の思惑など関係なしに交際を続け、互いの主人の情報やうわさ話を交換し合う。  そしてそういう横のつながりを通じて、本来はこっそりと詠み交わされたはずの美しい恋歌が、いつの間にか世の人々に知れ渡っていったりする。  さらには、どこの邸には美しい姫がいるの、どこの家では良い婿を探しているのという情報が、貴族社会全体へと流れていくものなのだ。その情報だけを頼りに、貴族の若君はあちらの姫君こちらの姫君と理想の恋人を探し歩くのだという。
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