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三、 闇の眼
源氏の君はその夜一晩だけ、六条院に泊まり、夜が明けると早々に二条の邸へ戻っていった。
女房たちの中には、まるで自分自身が見捨てられた妻であるかのように嘆く者もいたけれど。
――これでまた、柏木と逢うことができる。
遠ざかる牛車の軋みを聞きながら、わたくしが思ったことはただそれだけだった。
源氏の君がいなければ、彼に対する胸を締め上げるような恐怖も、それに逆らえない自分自身の無力さも、感じずにいられる。
――いいえ、そんなことはない。
だってあの男は、わたくしになど何の関心も持っていない。わたくしの身体があれほどの変化を遂げたことにも、まったく無頓着だったではないか。
そうよ。あの男がわたくしと柏木の恋に気がつくはずはない。
いい気味。このままずっと何も知らず、寝取られ男のままでいればいいのだ。
眼が覚めると、わたくしはすぐに髪を洗った。
陰陽師に占わせもせずに、と、年輩の女房たちはぶつぶつ文句を言ったけれど、気にしない。一刻も早く、源氏の君の残り香を洗い流してしまいたかった。
わたくしの髪は量だけはたっぷりあって、一度洗うと、乾くまでが一苦労。重くて頭もあがらなくなる。
でもそれを理由に、わたくしは小侍従以外の女房たちを全員追い払った。話しかけられても、声のする方へ顔を向けるのも苦しいから、と。
「このまま、源氏の君が二度と六条院へ戻ってこなければいいのに」
まわりに人影が少なくなると、わたくしはつい、小侍従にそうつぶやいてしまう。
「紗沙さま! そんなことをおっしゃっちゃいけません!」
小侍従は、周囲で誰が聞いているかわからない、と、あわててあたりを見回した。
「大丈夫よ、誰もいないわ。女房たちはみんな下がらせたもの」
わたくしはくすくすっと笑った。
なんだかわたくしたち二人の関係まで、逆転してしまったみたい。いつもは小侍従のほうがぺらぺらとよけいなことまでしゃべりすぎ、わたくしがそれを止めていたのに。
それでもまだ不安そうな顔で、小侍従はわたくしのそばへ寄ってきた。
「紗沙さま、少しお髪をお直しいたしましょうか」
そんな必要もないのにわたくしの髪をかき上げ、そしてその手でそっと、わたくしに小さな結び文を握らせる。
「柏木からね!?」
わたくしは思わず、声を高くはずませた。
「紗沙さま!」
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