5人が本棚に入れています
本棚に追加
五、 明け鴉、鳴く
わたくしが正気を取り戻した時、あたりはすっかり片づけられていた。
壊れた格子は元どおりに修理され、鮮血に汚れていた床もきれいに清められている。柏木が断末魔の苦しみにのたうち回ってしがみつき、血まみれの手形が印されてしまった几帳は、真新しいものに取り替えられていた。
わたくしの衣も単衣から袴から、すべて新しいものに着替えさせられていた。その袖にも寝具にも濃厚に香が焚きしめられている。血の臭いをごまかすために。
あの惨劇の痕跡は、何ひとつ残されていなかった。
女房たちがひそひそとうわさする。
「衛門督さまが、なにやらご不慮とか」
「あの試楽のあと、急にお床につかれて。たちの良くない流行り病らしくて、一条のお屋敷では、どなたのお見舞いもお断りされているそうですわ」
「北の御方、あの落葉の宮さまがつききりでご看病なさっていますのね」
「お偉いお坊さまの加持祈祷も役に立たず、たいそうなお苦しみだとか……」
まるで、柏木がまだ生きているかのような話をささやき交わす。
柏木の死は、公表されていないのだ。
いったいこれは、どういうことなの。
「一条御息所さまのお屋敷だけでなく、柏木さまのご実家の太政大臣家でも、何人もの陰陽師や咒禁師(じゅごんし)を呼び集め、回復祈願のご祈祷も昼夜を分かたず続けているそうですわ」
小侍従がそっとわたくしに告げた。
「なんで……そんなことを――」
「わかりません」
小侍従は首を横に振った。
「病が感染る(うつる)といけないからと、主上からのお見舞いの使者もほとんど門前払い。一条のお屋敷に出入りできるのは、今は夕霧さまお一人とか。夕霧さまはほとんど毎日のように一条を訪れておられますわ」
淡々と報告する小侍従の横顔は、まるで別人のように暗く、やつれていた。
きっとわたくしも同じだろう。小侍従は時折り、ひどく心配そうにわたくしを見る。
「紗沙さま。これをお読みくださいませ」
そっと一通の文を差し出す。何人もの手を経て、ようやく届けられたのか、薄汚れてくしゃくしゃになってしまった手紙。
宛名は小侍従、筆跡は端麗で美しく、見覚えのない女手(おんなで)だった。
【小少将(こしょうしょう)の君の記せる】
最初のコメントを投稿しよう!