第1章

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   五、 明け鴉、鳴く  わたくしが正気を取り戻した時、あたりはすっかり片づけられていた。  壊れた格子は元どおりに修理され、鮮血に汚れていた床もきれいに清められている。柏木が断末魔の苦しみにのたうち回ってしがみつき、血まみれの手形が印されてしまった几帳は、真新しいものに取り替えられていた。  わたくしの衣も単衣から袴から、すべて新しいものに着替えさせられていた。その袖にも寝具にも濃厚に香が焚きしめられている。血の臭いをごまかすために。  あの惨劇の痕跡は、何ひとつ残されていなかった。  女房たちがひそひそとうわさする。 「衛門督さまが、なにやらご不慮とか」 「あの試楽のあと、急にお床につかれて。たちの良くない流行り病らしくて、一条のお屋敷では、どなたのお見舞いもお断りされているそうですわ」 「北の御方、あの落葉の宮さまがつききりでご看病なさっていますのね」 「お偉いお坊さまの加持祈祷も役に立たず、たいそうなお苦しみだとか……」  まるで、柏木がまだ生きているかのような話をささやき交わす。  柏木の死は、公表されていないのだ。  いったいこれは、どういうことなの。 「一条御息所さまのお屋敷だけでなく、柏木さまのご実家の太政大臣家でも、何人もの陰陽師や咒禁師(じゅごんし)を呼び集め、回復祈願のご祈祷も昼夜を分かたず続けているそうですわ」  小侍従がそっとわたくしに告げた。 「なんで……そんなことを――」 「わかりません」  小侍従は首を横に振った。 「病が感染る(うつる)といけないからと、主上からのお見舞いの使者もほとんど門前払い。一条のお屋敷に出入りできるのは、今は夕霧さまお一人とか。夕霧さまはほとんど毎日のように一条を訪れておられますわ」  淡々と報告する小侍従の横顔は、まるで別人のように暗く、やつれていた。  きっとわたくしも同じだろう。小侍従は時折り、ひどく心配そうにわたくしを見る。 「紗沙さま。これをお読みくださいませ」  そっと一通の文を差し出す。何人もの手を経て、ようやく届けられたのか、薄汚れてくしゃくしゃになってしまった手紙。  宛名は小侍従、筆跡は端麗で美しく、見覚えのない女手(おんなで)だった。    【小少将(こしょうしょう)の君の記せる】
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