第1章

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大切な肉親を否応なく奪われた人の心を思いやり、何か慰めになる事を思い付きたいとは思う。  でも本当にその方の慰めになる事となると本当に難しいのだ。  私は過去にある方を慰めようと、ささやかなプレゼントなどした事がある。  その方が余りにも過大に感謝して下さり、謙遜に会い対して下さるので、自分の生活に触らない程度の事をして自己過信した「偽善者」の自分が嫌で、嫌いでその方と会話するのを避ける様になった。  結局人間は自分の生活に触りの無い程度の事しか人に盡せないものだ。  「若草物語」の女性の様に自分の子供達の食料迄哀れな隣人に与え、遂には 「疫病」に罹った隣人の看護で己が命まで捨てると言う程の愛を隣人に与える事は出来ないのだ。  私は少なくとも「隣人の不幸を喜ぶ様な人間では無いし、隣人が苦しんでいる災いが癒される事を願い、奇蹟の様に幸せになる事を願う人間ではある。  然し「心配性である」と言う事は、「今は大切な一族の誰も失う不幸に会って居ない。だが此の幸せが何時迄続くのだろう。その事に襲われた時、慣れない私がその悩みに耐えられるだろうか」と思うからである。  とどのつまり、他人様の耐えて居られる「悲しみ」を自分は受けたく無いのだ。  結局は私は「偽善者」なのだ、多分不幸に慣れない私は如何なる無様な心をさらすのだろうか と思うのである。  「脳死」になった我が子の臓器を他の人に提供した親御さんの談話がテレビで報じられた。  「此の子の様に幼くてこの世を去らねばならない方の役に立てば」との談話を聞き、人間はここまで広い心を持てるのかと、感じた。  私は近所の神社に「朝参り」を10年来実行している。  人気の無い境内で、自分の罪深い性格、優しく無かった過去と向き合う為である。  いわば私の「懺悔室」なのである。
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