第1章

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朝目が覚めると何を置いても心に「主の祈り」を唱えつつ、「滝不動尊」の境内に入り、誰も居ない、時には月と星、時には降りしきる雨に打たれ、ある時は真白に積もった雪を踏んで、鐘を鳴らし、親しい人皆の健康と幸を祈る。  この「世界に我一人」の静寂が段々私に色々な事を教えてくれた。  「人生と言う物は(自分一人の考えで決まる物では無い)色々な人が寄り合って答えが出るものだ」  誰一人居ない静寂と言う物が観念的には私に答えらしき事を教えてくれた。  然し90年近く私の内に巣喰って居た「自我」と言う物を私が抑え込めるだろうか、私は子供や亭主や孫よりも一番手ごわい相手は誰あろう自分なんだと気がついて笑いたくなった。  そうだ、これは一つ笑いながら気長に行こう。  それより他にこんなに私の人生を何時も心にわだかまって居る「心配感」で他の人の様に「アハハ」と笑えない人生とサヨナラする他は無い。  是非人生の終りにそういう快適で他の事を気にしない自由な心を味わって暮らしたいものである。  自分の心の如何しょうも無い頑固さを笑い乍ら直して行こうと思っただけ、私も成長したと思って良いかも知れない。  だって老いると若い時より頑固になって自分の性格のダメ部分を認めなくなると言うのに、その反対を行こうとする私は柔軟性があると認めてやろう。  聖書にも「空の鳥を見よ」「地の虫を見よ」とか言う句がある。  自分がこの世に生まれて来た意味など鳥や虫は何も考えて居ないだろう。  只生きて食べて、此の世を謳歌しているだけだ。  そもそも自分がこの世に生まれた価値などなくたって良かった訳だ。  そんな負担を自分に負わせたのが間違いの元だ。  テニスの錦織さんとかフイギュアの真央ちゃんなど特殊の才能を持って生まれた人はマレである。
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