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そんな俺とは裏腹に、慧は楽しそうに頬を緩め、膝を抱えてちょこんと床に座っていた。
俺がリビングに入っていくと、親鳥を見つけた雛鳥みたいに目をきらきらさせる。
こんなくたびれたおっさんを見てニコニコできる慧の気が知れないが、俺は余計なことはなにも言わずに黙ってソファーに腰をおろした。
「お前は床でいいのか?」
「はい。向かい合っていたほうが話しやすいですから。」
「そうか……。ダイニングテーブル買おうか?」
「え?!もったいないですよ!」
「でもお前を床に座らせて、俺だけソファーってのもな……。」
「そんな、気にしないでください。」
気にするなと言われても、正直居心地が悪い。
独り暮らしならばダイニングテーブルなんていらないと思っていたが、もしこうやって慧が来る機会が増えるなら買っておいたほうがいいはずだ。
……いや、落ち着け、俺。
いくら慧に合鍵を渡し、自分の生活圏内に入れたからって、家具を買い足すのは行き過ぎだ。
なに舞い上がってるんだよ。
終わりありきのこの関係なのに、馬鹿じゃないのか?
「……お前がいいなら構わないけど。」
浮かれている自分を戒めるように、俺は極力突き放した言い方をした。
慧は相変わらずニコニコと楽しそうに微笑んでいて、俺の声色の僅かな変化を気にとめていない。
言ってみれば、これは俺の問題だ。
慧は何も知らずにニコニコしていてくれればいい。
俺がのめり込み過ぎないように気を付けていればいいだけのことなのだから。
食事を始めてからも、俺の気はいまいち晴れなかった。
年を重ねると人は小心者になるってなにかの本で読んだことがあったが、まさにその通りだ。
来るべき喪失への恐れから気を逸らすため、俺は当たり障りのないことを慧に問う。
「何時くらいに来たんだ?」
「6時くらいです。授業の後に絵を描いて、それから買い物してここに来たので。」
「絵って、なにか課題の?」
「いえ、今度の全国美術展覧会に応募するための絵なんです。」
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