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私が、「杏樹」と出会ったのは、春の初め・・・春一番が吹き始めたときだった。
その日、春一番の温かい風と一緒に、憲一さんと、見知らぬ親子が訪ねてきた。
その風は、閉じこもっていた私の心の窓をこじ開けて、心の中を駆け抜けていった。
駆け抜けた後は、温かいけれど、どこか寂しい気持ちになった。その寂しい気持ちの正体を知ったのは、もっとずっと後になってからだったけれど、当時はまだ、私はその気持ちの正体を知るよしもなかった。
憲一さんは、隣に住む五歳年上の幼馴染みで、私のピアノの師匠の息子さんだ。ピアニストをしている師匠のマネージャー兼付き人をしていて、私にとっては兄のような存在だった。
その憲一さんがうちを訪ねてくることは、別に珍しいことではない。二年前、たった一人の身内だった父を癌で失い、ただっぴろい家に一人ぼっちだった私を気遣い、家が隣なのも手伝ってよく家を訪ねてきてくれたり、ご飯を作ってくれたりもしていた。彼は料理上手で、仕事が忙しいとき、彼がご飯を作ってくれるのは本当に有難かった。
かといって、何かのドラマのように、幼馴染が発展して恋愛に・・・なんていう甘い関係でもなく。
昔は、仲の良い歳の離れた兄妹みたいだった頃もあるし、思春期にありがちな、喧嘩ばっかりしていた頃だってある。
でも、昔はともかく、今は、私にとって憲一さんは、幼馴染、というより、長年お世話になっている師匠の息子さん、という、一線引いた人間関係で、私のほのかな恋心など、周囲にとっても私にとってもどうでも良いことだった。
でも、その憲一さんが、見知らぬ女性を連れてうちに来ることなんか、今までなかった。
その事実に、少しだけ心が痛んだのは、私が昔、この憲一さんの事を好きだったからだけど、その感情と心の痛みを、私は見ぬふりをした。
長い事、そうしていたように・・・そう、いつものように・・・
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