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「桜に、頼みがあるんだ」
そう言うと、憲一さんは私にその親子を紹介してくれた。
「彼女は、東野香織さん。俺の高校の同級生なんだ」
彼がそういうと、親子連れの母親は、私に深くお辞儀した。つられて私もお辞儀した。
憲一さんと同じ歳、と言うことは三十代前半、と言ったところだろうか?でも、年齢の割にはとてもしっかりした人のように見えた。キャリアウーマン、といった雰囲気で、服装も化粧も、しっかりとしていた。
少なくとも、家で専業主婦兼子育てをしているような雰囲気ではない。社会に出て、一人前以上に働き、周囲にも認められている、大人の女性・・・
私は無意識に、背筋を正した。
「はじめまして、叶野桜です」
「はい。よく存じております」
香織さんは、私の挨拶に、にこやかにそう答えた。鮮やかだけど嫌味のない口紅の色と、それが似合う華やかな容姿は、どちらも私が持ち合わせていないものだった。
「秋の定期公演、聴かさせて頂きました。」
私の職業はピアニスト兼ピアノ教師。
高校卒業後、ドイツの音大に留学して、そのまま卒業した。在学中、いくつかのピアノコンテストで優勝、入賞を果たし、そのまま現地でピアニストとしてデビューした。本当だったら、そのままドイツで演奏活動をしているはずだった。
転機が訪れたのは2年前。たった一人の身内だった父が癌を患い、余命一年の宣告を受けた。私は父の看病のため、ドイツでの音楽活動を中断して帰国した。
私の帰国から半年後、父は帰らぬ人となった。
もう、ドイツで音楽活動を・・・とは考えられなかった。父の死で、そんな気力も情熱も失っていた。
今は、都内や市内の楽器店でピアノの教師をする傍ら、定期的にあちこちで演奏活動もしている。
香織さんが言っていた“秋の定期公演”とは、私が住んでいるこの地元でのコンサートの事だ。高校時代の友人やOBが来てくれたり、私の大切な友達も沢山来てくれたりで、一番規模が大きい公演になる。私自身も、自然、この地元でのコンサートにはとても力を入れていた。
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