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「今日、家に寄ってけよ。」
月に何度か誘われて、僕は彼の家で夕飯をごちそうになる事もあった。初めて彼の体を受け入れたのも、彼の部屋だった。それは思春期の僕らにとってごくあたり前の出来事で、互いを必要とする感情と関係に終わりが来るなんてこれっぽちも想像出来なかった。
きっかけは彼の選択した進路に僕がケチをつけた事からはじまり、遠い北国の大学へ行くという彼を引き止めたくて子供じみた我儘を散々言った。最初は遠距離 でもいいから別れたくないと言っていた彼も、感情的で手の付けられない僕に閉口していた。あの時の僕は、どんな醜い顔で彼を睨みつけていたんだろう。どう して心に余裕が無くなってしまっていたんだろう。
遠くから6時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。僕は記憶を辿 りながらベンチの裏側に指先を伸ばして神経を尖らせる。そしてすぐにその跡を見つける事が出来た。彼がシャープペンシルの先で小さく彫ったKの文字。僕と彼の名前の頭文字は同じK。そのKの字を愛おしく指先でなぞった。その瞬間体の奥からこみ上げてきた感情に僕は驚いた。嗚咽が漏れそうになり、目頭が熱く なった。
そうなんだ、僕はまだこんなにも彼を愛している。
僕は再び電車に乗り、実家へ向かった。車窓から望む夜の海は静かで真っ暗だった。
あの漆黒の海に身を投げて僕が死ねば、彼は葬式に出る為にここへ来てくれるだろうか。僕の死に顔を見て恨み言を言いながら涙を浮かべて、遠くへ進学した事を後悔してくれるだろうか。あの頃のように、喪服姿の彼は人目を盗んで死んだ僕にキスしてくれるだろうか。
そんなくだらない事を反芻した後、少しも死ぬ気の無い僕は、実家に置いてきた一通の手紙の置き場所の事を考えていた。彼の転居先の住所が書かれたその手紙は実家の自分の部屋の机の一番上の引き出しの奥にあるはずだ。
あのベンチには彼が彫ったKの字の跡がまだ残っていた。その事を伝える為に手紙を書こう。同じ気持を再び共有できるか、間にあうか間に合わないか。
それはわからないけれど。
<了>
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